ハリファックス大爆発
概要
1917年、カナダのハリファックス港で爆薬を積んだ貨物船が衝突・炎上して爆発し、少なくとも1782人が死んだ。
場所
44.65°N -63.59°E · カナダ・ノバスコシア州
本文
ハリファックス大爆発は、1917年12月6日の朝、カナダ東部ノバスコシア州の港町ハリファックスで、爆薬を満載したフランスの貨物船モン・ブランがほかの船とぶつかって燃え、爆発した事故である。少なくとも1782人が死に、およそ9000人が負傷した。当時、人の手による爆発としては史上最大のもので、その力はTNT火薬約2.9キロトン分と見積もられている。
第一次世界大戦のさなか、ハリファックスは大西洋を渡る船団の集まる港だった。ドイツの潜水艦による被害を防ぐため、連合国は商船を船団にまとめ、軍艦に守らせてヨーロッパへ送っていた。港の奥のベッドフォード湾はその集合地で、湾へ通じる水道には潜水艦を防ぐ網が張られていた。戦争で港は活気づき、対岸のダートマスと合わせた人口は6万人を超えていた。戦前は危険な荷を積んだ船の入港を認めていなかったが、潜水艦の脅威のなかで規制は緩められていた。

モン・ブランはニューヨークでTNT火薬とピクリン酸、燃えやすいベンゾール、綿火薬を積み、フランスのボルドーへ向かう途中だった。12月5日の夕方に着いたが、網が閉じられた後だったため、翌朝の入港を待った。一方、ノルウェーの船イモは、ベルギーへの救援物資を積みにニューヨークへ向かうところで、燃料の積み込みが遅れて出港が翌朝にずれていた。
6日の朝、空荷のイモは遅れを取り戻そうと、狭い水道を速度の決まりを超えて進んでいた。モン・ブランの水先案内人は衝突を避けようと舵を切ったが、午前8時45分、イモの船首がモン・ブランの右舷に突っ込んだ。衝突の勢い自体は大きくなかったが、甲板に積んだベンゾールの樽が倒れて漏れ出し、イモが離れるときの火花で火がついた。爆発を恐れた乗員はすぐに船を捨てて対岸へ逃げたが、危険を知らせる叫びは周りに届かなかった。燃えながら漂う船は、岸の第6埠頭に流れ着いた。多くの市民が、珍しい船の火事を見ようと通りや窓辺に集まっていた。
午前9時4分、モン・ブランは爆発した。船は跡形もなく吹き飛び、衝撃波は半径800メートルほどの建物をほぼすべてなぎ倒した。白い煙は3600メートル以上の高さまで昇り、爆風は200キロ近く離れた土地でも感じられた。船の破片は何キロも先まで飛び散り、空荷のイモは津波で岸に打ち上げられた。北部のリッチモンド地区は壊滅し、対岸のダートマスも大きな被害を受けた。爆発で起きた津波は、対岸の入り江にあった先住民ミクマクの集落を押し流した。窓辺で火事を見ていた人々の多くが、飛び散ったガラスで目を傷つけ、失明した人は数百人に及んだ。倒れたストーブやランプから火事が広がった。
鉄道の操車場にいた指令係のヴィンス・コールマンは、燃える船に爆薬が積まれていると聞いていったん逃げかけたが、まもなく旅客列車が着くことを思い出して持ち場に戻り、列車を止めるよう電信を打ち続けた。彼は爆発で死んだが、その電信は鉄道沿いの各駅に届き、救援の手配を早めることにもなった。
救援はすぐに始まったが、翌日には猛吹雪が町を襲い、各地からの救援列車は雪に閉じ込められた。隣国アメリカのボストンからは救援隊と物資がいち早く届いた。ハリファックスはその恩を忘れず、翌1918年にボストンへクリスマスツリーを贈った。この贈り物は1971年に復活し、いまも毎年続いている。
事故のあとの調査は、最初はモン・ブランの船長と水先案内人、港を管理する海軍の士官に責任があるとしたが、のちの上訴で、イモとモン・ブランの双方に航行の誤りがあったと判断された。刑事責任を問われて有罪になった者はいない。戦時の港に危険な荷を積んだ船を入れた判断と、狭い水道での小さな操船の誤りが重なって、町の一角が一瞬で消えたのである。大量の目のけがの治療は、失明した人々を支える仕組みづくりにもつながった。