ミリアム・マケバ
概要
アパルトヘイトを国連で証言し、31年間パスポートを取り上げられた歌手。9つの国が名誉市民権を与えた。
関わったできごと(1)
アパルトヘイトの終結AD1994年 · 31年帰れなかった本文
ミリアム・マケバは1932年3月4日、ヨハネスブルグの黒人居住区に生まれた。母はスワジ人、父はコーサ人だった。生後18日で、母とともに刑務所に入った。母が家で醸したビールを売ったことが、黒人の酒造りを禁じる法律に触れたためである。赤ん坊のマケバは、母の刑期の6か月を獄中で過ごした。6歳ごろに父を亡くし、母は白人の家で住み込みの家政婦として働いた。マケバも少女のころから家事の仕事に出た。
歌は教会と学校の合唱で覚えた。1950年代の初め、人気の男性コーラス・グループ、マンハッタン・ブラザーズに加わり、やがて女性グループのスカイラークスを率いた。ジャズと南アフリカの都市の大衆音楽を混ぜた歌で、黒人居住区の人気者になった。
1959年、アメリカの監督が南アフリカの黒人の暮らしを隠し撮りした記録映画『カム・バック・アフリカ』に出演し、酒場で2曲を歌った。映画はヴェネツィア映画祭に招かれ、マケバも国を出た。ロンドンで歌手のハリー・ベラフォンテに見いだされ、その年のうちにニューヨークで舞台に立つ。コーサ語の舌打ち音が響く「クリック・ソング」は、アメリカの聴衆を驚かせた。

1960年、母が死んだ。葬儀のために帰ろうとすると、南アフリカ政府はパスポートを無効にしていた。国外で政府に不都合なことを言う者を、締め出したのである。同じ年、南アフリカのシャープビルでは、身分証の携帯を強いる法律に抗議した黒人に警官隊が発砲し、多くの死者が出ていた。マケバはそれから31年、故国に帰れなくなる。
1963年、マケバはニューヨークの国連で、アパルトヘイトを調べる特別委員会に立ち、白人政府への武器の禁輸と制裁を訴えた。そのあと、南アフリカは彼女のレコードを禁止した。アメリカでは人気が続き、1962年にはケネディ大統領の誕生日を祝う集いでも歌った。1966年にはベラフォンテとの共作のアルバムでグラミー賞を受け、1967年には「パタ・パタ」が世界的な大ヒットになった。

風向きが変わったのは1968年である。黒人の権利を求める運動(公民権法)のなかでも、急進的な「ブラック・パワー」を唱えた活動家ストークリー・カーマイケルと結婚すると、アメリカでの公演やレコード契約が次々に取り消された。二人はギニアに移った。独立を率いた大統領セク・トゥーレの国で、トゥーレはかつてフランスと戦ったサモリ・トゥーレの子孫を称していた。マケバはギニアの代表として国連の総会で演説もしている。ギニアを足場に、アフリカ各地とヨーロッパを回って歌い続けた。独立したばかりのアフリカの国々の式典で歌うことも多く、9つの国が彼女に名誉市民権やパスポートを与えた。人々は彼女を「ママ・アフリカ」と呼んだ。
1976年、南アフリカでソウェト蜂起が起きると、元夫でトランペット奏者のヒュー・マセケラが書いた「ソウェト・ブルース」を歌った。私生活では苦しみも多かった。一人娘のボンギは歌手として母と同じ舞台にも立ったが、1985年に若くして死んだ。1987年には、アメリカの歌手ポール・シモンのアルバム『グレイスランド』の世界ツアーに加わり、再び広く知られた。

1990年、27年の獄中生活から釈放されたネルソン・マンデラが、帰ってきてほしいと求めた。マケバは南アフリカに帰った。アパルトヘイトの終結へ向かう時代で、彼女は国じゅうで歌い、新しい国の親善大使も務めた。
2008年11月9日、イタリア南部のカステル・ヴォルトゥルノで、マフィアに抗議する集会が開かれた。その町では2か月前、アフリカから来た移民6人が犯罪組織に射殺されていた。マケバはそこで「パタ・パタ」などを歌い終えた直後、舞台裏で倒れ、その夜のうちに死んだ。76歳だった。最後まで、自分の歌は政治ではなく、真実を歌っているだけだと語っていた。