できごと

永代橋崩落事故

Collapse of the Eitai Bridge
AD1807年9月20日
重要度 2
ロシア帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本大越朝鮮王朝フィリピンカンボジアアイヌモシリAD1807年9月20日永代橋
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1807年9月20日の版図を描いています(11勢力)。

概要

深川祭に向かう群衆の重みで隅田川の永代橋が崩れ落ちた事故。死傷者と行方不明者は1400人を超えたとも言われる。

場所

永代橋
35.68°N 139.79°E · 日本・東京都中央区・江東区

本文

永代橋は、江戸の隅田川の河口近くに架かり、日本橋や八丁堀の側から深川へ渡る橋である。元禄11年(1698年)に江戸幕府が架けた。隅田川では千住大橋、両国橋、新大橋に次ぐ四番目の大橋で、埋め立てで広がっていく深川と江戸の中心とを結ぶ道筋になった。

ところが幕府の財政は苦しくなり、享保4年(1719年)、幕府は永代橋の維持をあきらめ、取り壊すことを決めた。享保の改革で出費を切り詰めていた時期である。町の人々が存続を願い出て、修繕などの費用をすべて町方が受け持つことを条件に、橋は残された。町方は渡る人から通行料を取り、橋のたもとに市を開いて費用をまかなった。幕府の手を離れた橋は、資金の都合で手入れが行き届きにくかった。

文化4年8月19日(1807年9月20日)、深川の富岡八幡宮で祭礼が行われた。深川祭が開かれるのは12年ぶりで、江戸じゅうから見物の人が深川へ向かった。この日、一橋家の船が橋の下を通るあいだ、橋は通行止めにされたと伝わる。せき止められた人々は橋のたもとにたまり、止めが解かれると一度に橋へ押し出した。

群衆の重みに橋は耐えられず、中央よりやや東寄りの部分が数間にわたって崩れ落ちた。前の人々が「橋が落ちた」と叫んでも、後ろから来る人々には届かず、押されるまま次々と崩れた所から川へ落ちていった。曲亭馬琴は『兎園小説余録』に、一人の武士が刀を抜いて振りかざし、それでようやく人々が後ろへ下がったと書いている。この武士は南町奉行所の同心、渡辺小佐衛門だったとも伝えられる。

幕府の御船手組や佃島の漁師が舟を出して救助にあたったが、数日前の雨で川の水は濁っていて、救助ははかどらなかった。事故の翌日の記録では、引き上げられた者780人のうち440人がすでに死んでいたという。沖へ流されて行方が知れない者も多く、死傷者と行方不明者を合わせると1400人を超えたとも言われる。記録によって数は違い、正確な数はわからない。遺体の確認も混乱し、家族が別人の遺体を引き取ってしまうことも起きた。永代橋が渡れなくなったため、上流の両国橋や新大橋に人が押し寄せ、そちらでも急いで通行を制限した。

一つの橋が落ちてこれほどの人が亡くなった例は世界でもほとんどなく、史上最悪の落橋事故と呼ばれることがある。前で起きた異変が後ろへ伝わらないまま、群衆が押し続けたことが被害を大きくした。

事故のあと、橋の管理にあたっていた者たちは牢に入れられ、橋役人や名主らも処分を受けた。それでも幕府は交通の要としての橋の大切さを認め、永代橋は架け直された。深川木場の材木問屋たちは、深川万年町の海福寺に犠牲者の供養塔を建てた。海福寺はのちに目黒へ移り、供養塔もともに移されている。

事故は江戸の人々の記憶に長く残った。狂歌師で幕臣の大田南畝は、見聞きした話を集めて『夢の浮橋』をまとめた。事故にまつわる話も数多く伝わる。祭りへ向かう途中で財布をすられ、金がなくては見物してもしかたがないと家へ引き返した男が、翌日、奉行所から自分の遺体が上がったと呼び出された、という話はその一つである。遺体と一緒に見つかったのは男の名を書いた財布で、役人は、財布をすった者が祭りへ向かい、橋から落ちたのだろうと考えたという。この話は落語『永代橋』のもとになった。河竹黙阿弥の歌舞伎『八幡祭小望月賑』も、舞台を鎌倉に移してこの事故を取り込んでいる。事故を詠んだ狂歌や、町に貼られた落書きの歌も伝わっている。

永代橋はその後も架け替えを重ね、明治30年(1897年)には鉄の橋になった。その橋も関東大震災で焼け落ち、1926年に新しい橋が架けられた。いまの永代橋はその橋で、国の重要文化財になっている。深川祭はいまも富岡八幡宮の祭りとして続き、数年に一度の本祭りには、たくさんの神輿がこの橋を渡っていく。

動画(1)

歴史に残るヤバすぎる事故3選【日本で起きた史上最悪の橋崩落・奇抜な漂流・ハドソン川の奇跡】非株式会社いつかやる事故三選の一つとして永代橋の崩落を語る

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