人物

南光坊天海

Nankobo Tenkai
1536年 – AD1643年11月13日(享年107・推定)
江戸幕府重要度 3

概要

天台宗の僧。徳川家康から家光まで三代に仕え、家康を東照大権現として祀り、寛永寺を開いた。前半生は謎が多い。

本文

天海は、徳川家康・徳川秀忠・徳川家光の三代の将軍に仕えた天台宗の僧である。南光坊は比叡山で住んだ坊の名、死後には慈眼大師の号を贈られた。家康の神号を決め、日光に東照宮を開き、江戸に寛永寺を建てた。百歳を超えて生きたと伝えられ、前半生がほとんど分からないことから、さまざまな説がつきまとう人物でもある。

出自ははっきりしない。弟子たちがまとめた伝記は、陸奥国会津の蘆名氏の一族に生まれたとするが、同じ伝記に、天海自身は人に尋ねられても氏素性も年齢も忘れたと答えた、とも書かれている。生年には諸説あり、寛永9年(1632年)に97歳だったという公家の日記の記事から、天文5年(1536年)とする説が有力とされる。これに従えば、亡くなったときは数えで108歳になる。

若いころは随風と名乗り、下野の宇都宮で天台宗を学び、比叡山延暦寺や園城寺、奈良の興福寺などで修行したと伝えられる。元亀2年(1571年)に織田信長が比叡山を焼き討ちすると、甲斐の武田信玄に招かれて移ったという。のち会津、上野を経て、天正16年(1588年)ごろ武蔵の川越にあった無量寿寺北院に入り、天海と名乗った。足取りが確かになるのはここからである。慶長4年(1599年)にこの寺の住職となり、のちに寺の名を喜多院と改めて関東の天台宗の本山とした。

家康に重く用いられるのは慶長年間の半ばからである。比叡山の再興を命じられ、権僧正に任じられ、慶長18年(1613年)には日光山の貫主となった。大坂の陣のきっかけになった方広寺の鐘の銘をめぐる問題にも深く関わったとされる。元和2年(1616年)、家康は死の床で、葬儀と神としての祀り方を天海、臨済宗の僧以心崇伝、本多正純に託した。

大坂の陣に関わる図版:Osakarakuzyou (cropped)
大坂の陣Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

家康の死後、どの神号で祀るかをめぐって天海と崇伝が争った。崇伝は吉田神道による「明神」を主張し、天海は自らの山王一実神道による「権現」を説いた。天海は、豊臣秀吉が豊国大明神として祀られたあと豊臣家が滅んだことを挙げ、明神は縁起が悪いと述べたという。秀忠は天海の説をとり、家康は東照大権現となった。遺骸は駿河の久能山から日光へ移され、のちの日光東照宮の始まりとなった。

その後は家光に重んじられ、寛永年間のはじめ、江戸城の北東にあたる上野の忍岡に寛永寺を開いた。山号の東叡山は「東の比叡山」の意味である。京の北東を比叡山延暦寺が守ったように、江戸の鬼門を守る寺として構想されたと考えられており、不忍池を琵琶湖に、池の中の弁天堂を竹生島になぞらえた。江戸の町の配置そのものを天海が陰陽道や風水にもとづいて設計した、という話もよく語られるが、これは一部の論者の説で、広く認められているわけではない。

天海は政治の場でも動いた。紫衣事件で処分された僧や、改易された大名などの赦免をたびたび願い出ている。晩年には、仏典の集成である大蔵経(一切経)を木活字で刊行する事業を始めた。天海は寛永20年10月2日(1643年11月13日)に没したが、事業は幕府の支援で引き継がれ、慶安元年(1648年)に完成した。「天海版」と呼ばれるこの大蔵経は日本の出版史上の大きな仕事とされ、使われた木活字は26万個以上がいまも残る。同じ年、朝廷は天海に慈眼大師の号を贈った。

前半生の空白と異様な長寿は、天海の正体をめぐる想像を呼んだ。よく知られるのが、本能寺の変のあと山崎の戦いで死んだはずの明智光秀が生きのびて天海になったという説である。日光に明智平という地名があることなどが根拠に挙げられるが、裏づける史料は無く、歴史の研究では認められていない。確かなのは、天海が家康の神格化と徳川将軍家の宗教的な権威づけを形にした人物だったということである。日光、川越の喜多院、比叡山のふもとの坂本には、天海を祀る慈眼堂がある。

動画(1)

徳川家康を裏で支えた怪僧【南光坊天海】魔力と宗教で政治支配した!?「隠れた偉人シリーズ」どうする家康非株式会社いつかやる家康を神として祀った天海の政治手腕と明智光秀説を紹介する
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