人物

ヒゼキヤ

Hezekiah
BC740年頃 – BC687年(享年53・推定)
ユダ王国重要度 3

概要

アッシリアに背き、包囲され、生き延びた。533メートルのトンネルを両側から掘って、真ん中で会った。その碑文がいまイスタンブルにある。地方の聖所を壊してエルサレムに集めた。病んで15年寿命を延ばされ、日時計の影が戻ったと聖書は書く。

関わったできごと(1)

センナケリブのエルサレム包囲BC701年 · 王

本文

ヒゼキヤは、紀元前8世紀の末から7世紀のはじめにかけて、エルサレムを都とする南のユダ王国を治めた王である。父はアハズ王。旧約聖書の列王記によれば、25歳で王となり、29年間エルサレムで治めた。ただ、聖書に記された年数をそのまま組み合わせると矛盾が生じ、即位の年は紀元前727年ごろとする説と紀元前715年ごろとする説がある。亡くなったのは紀元前687年ごろとされる。

ヒゼキヤを描いたオーフス教会の装飾
ヒゼキヤを描いたオーフス教会の装飾Wikimedia Commons This image was produced by me, David Castor ( user:dcastor ). The pictures I submit to the Wikipedia Project are release · Public domain

ヒゼキヤが生きたのは、西アジアの全体がアッシリア(新アッシリア帝国)という巨大な帝国の影に覆われた時代だった。アッシリアは、従わない国を攻め滅ぼし、住民を遠くへ移す政策で恐れられていた(アッシリアの強制移住)。紀元前722年ごろ、北の兄弟国のイスラエル王国は、アッシリアに都サマリアを落とされて滅び、人々は連れ去られた。北から逃れてきた人々を迎え入れて、エルサレムの町は大きく膨らんだ。考古学者は、この時代にエルサレムの西の丘を囲む厚さ7メートルほどの城壁が築かれたことを明らかにしている。

列王記は、ヒゼキヤを、ダビデ以来最もよい王の一人として描いている。彼は、各地にあった「高き所」と呼ばれる聖所を取り壊し、女神アシェラの柱を切り倒した。モーセが荒野で作ったと伝えられる青銅の蛇の像も、民がそれに香をたいて拝んでいたので打ち砕いた。神の礼拝をエルサレムの神殿に集める改革である。歴代誌は、彼が過越の祭りを盛大に祝い、滅んだ北の国に残った人々までエルサレムに招いたと書く。ユダの各地の遺跡では、この時代に祭壇が取り壊された跡が見つかっており、改革の跡ではないかと考えられているが、その規模については議論がある。

アッシリアの弓兵(浮彫)
アッシリアの弓兵(浮彫)Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

紀元前705年、アッシリアの王サルゴン2世が戦場で死ぬと、帝国の各地で反乱が起きた。ヒゼキヤもこの機に、アッシリアへの貢ぎ物をやめ、エジプトや周りの小国と手を結んで背いた。バビロンでアッシリアに逆らっていた王メロダク・バルアダンの使者が来ると、ヒゼキヤは宝物庫を開いて見せた。預言者イザヤ(イザヤ)は、この王の宝はいつかすべてバビロンに運び去られるだろうと警告した(イザヤの預言)。イザヤは、エジプトに頼ることにも強く反対した。

反乱に備えて、ヒゼキヤは都の守りを固めた。最も大きな工事は、水の確保だった。エルサレムの唯一の泉であるギホンの泉は、城壁の外の谷底にあった。包囲されれば、敵に水を奪われる。そこでヒゼキヤは、岩盤の中にトンネルを掘り、泉の水を城壁の内側のシロアムの池まで引いた。長さ533メートル、ゆるやかなS字を描くトンネルを、両端から掘り進めて地中で出会わせるという、難しい工事だった。ユダの各地からは、「王のもの」という言葉と町の名を刻んだ印のついた壺の取っ手が2000個以上見つかっており、包囲に備えて食糧を蓄えた跡ではないかと考えられている。

セナケリブの敗北(ペーテル・パウル・ルーベンス画、17世紀)
セナケリブの敗北(ペーテル・パウル・ルーベンス画、17世紀)Wikimedia Commons Peter Paul Rubens · Public domain

紀元前701年、新しいアッシリア王センナケリブ(センナケリブ)が大軍を率いて西へ攻め寄せた。フェニキアの町々が降り、ユダの町々は次々に落とされた。ユダ第二の町ラキシュは激しい攻防の末に陥落し、センナケリブはその様子を、ニネヴェの宮殿の壁一面の浮き彫りに刻ませた。いま大英博物館にあるその浮き彫りには、坂を押し上げられる攻城の機械や、連れ去られる住民の姿が描かれている。センナケリブはエルサレムも包囲した(センナケリブのエルサレム包囲)。センナケリブの年代記の角柱は、ヒゼキヤを、籠の中の鳥のように都に閉じ込めたと誇っている。

だが、エルサレムは落ちなかった。ヒゼキヤは莫大な貢ぎ物を差し出して和を請うた。列王記は、神殿の扉の金まで剥がして払ったと書き、センナケリブの年代記も、ヒゼキヤが金と銀、娘たちや楽人をニネヴェに送ったと記している。列王記はさらに、主の使いが一夜のうちにアッシリアの陣で18万5千人を打ち、センナケリブは引き揚げたと伝える。疫病が陣を襲ったのではないかと考える人もいる。理由がどうであれ、ユダの国は多くの土地を奪われながらも、王と都を保って生き延びた。北のイスラエルとは違う運命だった。

逃げるアドランメレク(アーサー・マーチ画)
逃げるアドランメレク(アーサー・マーチ画)Wikimedia Commons Engraver Arthur Murch (1836-1885) · Public domain

聖書には、ヒゼキヤの病の話もある。王が重い腫れ物で死にかけたとき、イザヤは、あなたは死ぬと告げた。王は顔を壁に向けて泣き、自分が誠実に歩んできたことを思い出してほしいと祈った。すると神は、さらに15年の命を与えると約束し、そのしるしとして、アハズ王の階段の日影を10段後戻りさせたという。イザヤは干しいちじくの塊を腫れ物に当てさせ、王は回復した。イザヤ書には、病から立ち直った王が作ったとされる感謝の歌が収められている。

ヒゼキヤが亡くなると、12歳の息子マナセが王になった。マナセは55年にわたって治め、父が壊した聖所を建て直し、アッシリアにも従った。列王記はマナセを最も悪い王の一人として描いている。ヒゼキヤの改革がもう一度大きな形で行われるのは、曾孫のヨシヤの時代である(ヨシヤの改革)。そのヨシヤの死から20年あまりのち、ユダはバビロンに滅ぼされる(バビロン捕囚)。

バビロン捕囚に関わる図版:Tissot The Flight of the Prisoners
バビロン捕囚Wikimedia Commons James Tissot · Public domain

1880年、エルサレムのシロアムの池の近くで遊んでいた少年が、トンネルの壁に刻まれた古いヘブライ文字の碑文を見つけた。碑文は、二組の掘り手が斧を振るって互いに向かって掘り進み、あと3キュビトのところで互いの呼ぶ声が聞こえ、ついに斧と斧が出会って、水が泉から池へ1200キュビト流れた、と記していた。王の名も神の名も無く、掘った人々の仕事だけが記された、古代の土木工事の記録である。碑文は、当時エルサレムを治めていたオスマン帝国によって切り取られて運ばれ、いまもイスタンブルの考古学博物館に収められている。トンネルはいまも水をたたえ、訪れた人が中を歩いて通り抜けることができる。

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