大村喜前
概要
肥前大村藩の初代藩主。キリシタン大名大村純忠の子で自らも洗礼を受けたが、1602年に棄教して日蓮宗に改めた。
本文
大村喜前は、肥前国大村(いまの長崎県大村市)を治めた大名で、大村藩の初代藩主である。父は日本で最初のキリシタン大名として知られる大村純忠で、喜前自身もドン・サンチョの洗礼名を持つキリシタンだった。だが1602年(慶長7年)、公然とキリスト教を棄てて日蓮宗に改め、領内のキリシタンを厳しく取り締まった。キリスト教の盛んな土地だった大村は、こうして寺の多い土地へと姿を変えていく。
1569年(永禄12年)、純忠の嫡男として生まれた。父の純忠は1563年に洗礼を受け、1570年代のはじめには長崎の港をポルトガル船に開き、1580年にはその長崎をイエズス会に寄進した。喜前はキリスト教の色の濃い家で育ち、父と同じ洗礼名を受けた。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉が九州へ攻め込むと、病の父に代わって19歳の喜前が秀吉のもとへ参じ、旧領を安堵する朱印状を受けた。同じ年の5月に純忠が死に、喜前が家を継いだ。その直後、秀吉はバテレン追放令を出す。長崎は取り上げられて秀吉の直轄となり、喜前は領内から宣教師を退去させた。ただ、自分自身の信仰については、このとき何も明らかにしていない。
文禄・慶長の役では小西行長の率いる第一軍に属して朝鮮に渡り、平壌まで進んだ。秀吉が死んだ1598年の順天城の戦いでは、小西・松浦・有馬・五島の諸将とともに、数で勝る明・朝鮮の軍勢を退けている。帰国後、三方を海に囲まれた順天城にならったとされる地に玖島城を築き、居城を移した。1600年の関ヶ原の戦いの前には、松浦鎮信・有馬晴信・五島玄雅と去就を話し合い、喜前の意見で4家そろって徳川家康の東軍につくことになった。こうして所領を守り、大村藩が成り立った。

棄教の理由については諸説ある。熱心な日蓮宗徒だった肥後の加藤清正の勧め、長崎を奪われたのはイエズス会の通訳ジョアン・ロドリゲスのたくらみではないかという疑い、日本人の司祭が宣教師を外国の侵略の手先だと告げたこと、などが挙げられている。1600年にキリシタンだった正室が死んだときには教会に墓を設けており、それからわずか2年での転向だった。喜前は領内の教会をすべて壊させ、キリシタンへの取り締まりを始めた。妹の松東院や、当時はキリシタンだった嫡男の純頼は反対したという。
1607年には家康の許しを得て、一門の領地を取り上げる「御一門払い」を行い、藩の財源と藩主の力を固めた。一方でキリスト教から離れた喜前は、寺を次々に建てた。1608年(慶長13年)には大村家の菩提寺として本経寺を建てている。いまも長崎県内には「大村法華」と呼ばれる日蓮宗の寺々が残り、キリシタンの地に寺が配されていった歩みを伝えている。
キリシタン大名の家が生き残るには、新しい天下人に疑われないことが何より大事だった。1614年にキリシタン禁教令が出されると、幕府は本多正純を大村に送って実情を確かめさせたが、喜前は事情に通じた者として説明役を務めた。大坂の陣では徳川方として長崎の警備などに当たっている。

1615年(元和元年)、病を理由に家督を純頼に譲り、翌1616年(元和2年)8月8日に48歳で大村で死んだ。本経寺に葬られた。迫害を恨んだキリシタンに毒を盛られたという話も伝わるが、確かなことは分からない。天正遣欧少年使節の副使だった千々石ミゲルは喜前のいとこにあたり、ミゲルが信仰を棄てたあとも喜前が迫害を加えたという話がイエズス会の書簡に残るが、日本側の史料では確かめられない。
喜前が築いた玖島城の跡は、いまは大村公園として整えられ、桜や菖蒲の名所として親しまれている。本丸跡には大村神社があり、喜前の遺徳をたたえる碑が、幕末の藩主大村純熈の像と並んで立つ。大村藩は喜前の子孫が治めて明治まで続いた。父が開いたキリスト教の地を、子が寺の地に塗り替えたという対照は、戦国から江戸へ移る時代に小さな大名家が生き延びることの厳しさを物語っている。