人物

三浦啓之助

Miura Keinosuke
AD1848年12月6日 – AD1877年2月26日(享年28)
江戸幕府重要度 2

概要

佐久間象山の子。父が京都で暗殺されると仇討ちを志して新選組に入ったが、素行が悪く脱走した。本名は佐久間恪二郎。

本文

三浦啓之助は、幕末の新選組の隊士である。本名は佐久間恪二郎といい、洋学者として名高い佐久間象山の子だった。父を暗殺されて仇討ちを志し、新選組に入ったが、隊では乱暴を重ねて持て余され、やがて脱走した。明治になってからも浮き沈みの多い短い生涯を送った。

嘉永元年11月11日(1848年12月6日)、象山と妾のお蝶との間に生まれた。象山の正妻の順は勝海舟の妹で、恪二郎にとって海舟は義理の叔父にあたる。父は松代藩士で、西洋の砲術や科学を学び、開国を説いた当代きっての洋学者だった。恪二郎は8歳で父の手紙の代筆を務めたともいわれ、幼いころは利発な子だったらしい。

元治元年(1864年)、象山は幕府に召されて京都に上り、恪二郎も父に従った。しかし同年7月11日、象山は京都の路上で尊王攘夷派の河上彦斎らに斬られて死んだ。開国を唱える象山は、攘夷派から敵とみなされていたのである。この前月には新選組が池田屋事件で尊攘派の志士を襲い、8日後には長州藩が京都で禁門の変を起こしている。京都が血なまぐさい対立のただ中にあった時期だった。さらに、松代藩は白昼に路上で討たれたことを藩の恥とし、佐久間家は家名を断たれてしまった。

禁門の変に関わる図版:Hamaguri rebellion
禁門の変Wikimedia Commons Yūzan Mori · Public domain

父の門人だった会津藩士の山本覚馬は、恪二郎に仇討ちを勧めた。恪二郎は京都の治安を担っていた新選組に入り、三浦啓之助と名乗った。局長の近藤勇はその志に心を動かされ、仇討ちを助けると約束したと伝えられる。入隊後は近藤の側近く置かれ、ほかの平隊士より丁重に扱われた。一方で叔父の海舟は、甥が新選組に入ったことを心配していたという。

しかし、啓之助は隊で問題を起こし続けた。父譲りの気位の高さに加えて素行が悪く、仲間の隊士と乱暴を働いたため、副長の土方歳三らに目をつけられたとされる。土方は松代藩へ帰るよう促したが、啓之助はこれも聞かなかったという。仇とされた河上彦斎はまもなく京都を離れて長州方に身を寄せ、啓之助が仇を討つ機会はついに来なかった。彦斎は明治4年(1871年)、新政府によって別の嫌疑で処刑されている。結局、慶応2年から3年(1866年から1867年)ごろ、仲間とともに新選組を脱走した。脱走した隊士の多くが厳しく処罰された新選組で、啓之助は連れ戻されることもなく放っておかれたとされ、隊にとっても扱いかねる存在だったことがうかがえる。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まる。啓之助は北越戦争で働きがあったとされ、明治になって佐久間家は家名の再興を許された。同じ年、海舟の紹介で福沢諭吉の慶應義塾に入ったが、女性をめぐる問題が重なり、結婚を機に退学したという。

北越戦争に関わる図版:Echigo no kuni Uesugi Kagekatsu katoku arasoi kassen
北越戦争Wikimedia Commons Ichiyosai Kuniteru (Utagawa Kuniteru II) (1830-1874) · Public domain

明治維新の後は恪と名を改め、海舟の後ろ盾と象山の子という名に助けられて司法省に出仕した。しかし警察官と喧嘩をして免職になるなど、ここでも長続きしなかった。その後、裁判所の判事として四国の松山に赴いたが、明治10年(1877年)2月26日、その地で亡くなった。満28歳だった。鰻を食べて食中毒を起こしたとも、溺れて死んだともいわれ、死因ははっきりしない。九州で西南戦争が始まった直後のことである。

啓之助は、幕末の新選組を語る物語の中では、名高い父と比べて「出来の悪い息子」として描かれることが多い。その一方で、父の非業の死、家名の断絶、仇討ちを掲げての入隊、そして脱走という道のりは、時代の激しい変わり目に放り出された一人の若者の姿でもある。小説や漫画、2013年の大河ドラマ『八重の桜』などにも登場している。

動画(1)

幕末で一番のクズ!?【三浦啓之助】新選組も崩壊しかけたとんでもない爆弾野郎!非株式会社いつかやる新選組を引っかき回した象山の息子の破天荒な生涯を追う
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1848年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →