金日成
概要
朝鮮民主主義人民共和国の建国者で初代の最高指導者。朝鮮戦争を起こし、粛清と個人崇拝で死ぬまで独裁を続けた。
本文
金日成は1912年4月15日、平壌の西の万景台で生まれた。本名は金成柱。韓国併合の2年後で、朝鮮は日本の植民地だった。母の実家はキリスト教の家で、父の金亨稷は抗日の運動に関わっていたとみられる。三・一独立運動の翌年、一家は満洲(中国東北部)へ移った。少年は吉林の中国人中学に通い、そこでマルクス主義に触れ、学生運動に加わって退学した。

満洲事変で日本が満洲を押さえると、金成柱は中国共産党に入り、党が率いる抗日のゲリラ部隊に加わった。金日成の名を使い始めたのもこのころである。部隊の中では、朝鮮人の隊員が日本の手先と疑われて次々に粛清された。金日成はその疑いをかけられながらも生き延び、東北抗日聯軍の師長となった。1937年6月4日、部隊は国境を越えて朝鮮北部の町普天堡を夜襲した。朝鮮の内側を襲って成功した例は少なく、大きく報道され、日本の警察が懸賞金をかけたことで、金日成の名は広く知られた。北朝鮮の公式の歴史は、この戦いの規模と彼の役割を大きく誇張している。
日本軍の討伐で抗日聯軍は追いつめられ、1940年秋、金日成はわずかな部下を連れてソ連の沿海州へ逃れた。ハバロフスク近郊で、中国人と朝鮮人の残存部隊を集めたソ連軍の第88特別旅団に入り、大隊長となった。長男の金正日はこのソ連時代に生まれたが、北朝鮮の公式発表では白頭山の密営で生まれたことになっている。
1945年8月、ソ連軍が朝鮮半島の北半分を占領した。金日成は9月19日、ソ連の軍艦で元山に上陸して帰国し、10月14日に平壌の集会で初めて民衆の前に立った。ソ連軍政の後押しを受けて、1946年2月には北朝鮮臨時人民委員会の委員長となった。当時の北の共産主義者の中で、金日成の一派は少数派にすぎなかった。南で大韓民国が成立した後の1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就いた。翌年には朝鮮労働党の党首となった。
金日成は武力による統一を望み、ヨシフ・スターリンの同意と毛沢東の支援を取りつけた。1950年6月25日、北朝鮮軍は北緯38度線を越えて南へ攻め込み、朝鮮戦争が始まった。一時は半島の南端近くまで迫ったが、9月の国連軍の仁川上陸で総崩れとなり、10月には金日成も平壌を捨てて中国領へ逃れた。中国人民志願軍の参戦で戦線は押し戻され、38度線付近でこう着したのち、1953年7月に休戦が結ばれた(朝鮮戦争の休戦)。半島は荒れ果て、数百万の死者を出したが、統一はならなかった。

戦後、金日成は戦争の責任をほかの派閥に負わせ、政敵を次々に排除した。南から来た共産主義者の指導者朴憲永らを処刑し、1956年に党内で批判の声が上がると、中国寄りの延安派とソ連派を追放した。1967年には国内派の甲山派も粛清し、党の指導部は彼の一派だけになった。中ソが対立する間でどちらにも寄りかからない自主の路線をとり、その理念として主体思想を掲げた。1972年の新しい憲法で国家主席の地位が設けられ、金日成は党・国家・軍の頂点を一身に占めた。全土に肖像と銅像が立ち、個人崇拝は極端なものになった。後継者には長男の金正日が選ばれ、1980年の党大会で表に出された。
1980年代になると経済は行き詰まり、冷戦の終わりとソ連の解体で頼りにしていた援助も失われた。1991年には韓国と同時に国連に加盟した。核開発の疑いで米国との緊張が高まった1994年6月、元米大統領カーターが平壌を訪れ、金日成は韓国の金泳三大統領との初の南北首脳会談に応じた。しかし会談を前にした7月8日、金日成は82歳で急死した。死因は心筋梗塞と発表された。
遺体は防腐処理され、平壌の錦繍山太陽宮殿に安置されている。1998年の憲法改正で金日成は永遠の主席とされ、誕生日の4月15日は太陽節として最大の祝日になった。公式の伝記は彼を数々の超人的な英雄譚で飾っている。かつて日本や韓国では、抗日の英雄金日成は別人で北の指導者はその名を借りた偽者だという説が唱えられたが、現在の研究では、普天堡を襲った指揮官と北朝鮮の指導者は同一人物とみる見方が有力である。死後、北朝鮮は大飢饉に見舞われ、権力は金正日、さらに孫の金正恩へと受け継がれた。