人物

可児才蔵

Kani Saizo
1554年 – AD1613年8月10日(享年59・推定)
豊臣氏重要度 2

概要

戦国時代の槍の名手。名は吉長。主君を何度も替え、福島正則に仕えて関ヶ原で多くの首を取った。「笹の才蔵」と呼ばれた。

本文

可児才蔵は、戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけて生きた武将で、槍の名手として知られる。名は吉長だが、通称の才蔵で呼ばれることが多い。大名ではなく、大名に仕えて戦場で槍をふるう一人の武士だった。討ち取った敵の首に笹の葉を含ませて目印にしたことから「笹の才蔵」と呼ばれた。その名が今まで語り継がれているのは、残された数多くの逸話による。ただし、逸話の多くは後世の記録によるもので、どこまでが事実かは分からない。

天文23年(1554年)、美濃国可児郡(いまの岐阜県御嵩町)に生まれ、幼いころを地元の願興寺で過ごしたという。槍は奈良の興福寺の僧で宝蔵院流槍術を開いた胤栄に学んだとされる。胤栄に学ぶうちにかえって槍が使えなくなり、相談すると、技を使おうとするからいけない、無心で使えるまで修行せよと諭された、という話も伝わる。

才蔵は主君を何度も替えた。柴田勝家、明智光秀、前田利家ら織田信長の家臣に仕え、森長可に仕えた時期もあったとされる。笹の話は、天正10年(1582年)の甲斐の武田攻めのときのこととして伝わる。才蔵が三つの首だけを持って長可の前に出て、十六の首を取ったと言った。三つしかないではないかと問われると、多すぎて持ちきれず捨ててきたが、自分が取った首には笹の葉を含ませてある、と答えた。調べさせると、笹をくわえた首が十三見つかったという。

本能寺の変のあとは織田信孝に仕えたが、信孝は天正11年(1583年)に羽柴秀吉と争って自害した。次に秀吉の甥の羽柴秀次に仕えたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで秀次の軍が徳川勢に大敗したとき、才蔵は秀次と仲違いして去った。逃げる途中、徒歩の秀次に馬をよこせと言われて「雨の日の傘に候」と断った、つまり自分にもなくてはならないものだと答えて走り去った、という話が残る。

浪人していた才蔵を迎えたのが、秀吉子飼いの武将福島正則である。正則が伊予の大名だったころに仕え、天正18年(1590年)の小田原攻め(秀吉の天下統一)では、北条氏規の守る伊豆の韮山城の攻撃で先頭に立った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福島隊の先鋒を務めた。前哨戦の岐阜城攻めでも首を挙げ、本戦では多くの首を取って、徳川家康から直接称えられたという。本戦の首の数を十七とする記録があるが、これは戦いのあとで笹を含ませた首を数えたものだといわれる。東軍の先鋒は福島隊と決まっていたが、徳川家の井伊直政が家康の四男松平忠吉を連れて前に出ようとしたとき、才蔵はそれをとがめたものの、忠吉の名を出されて道を譲るほかなかった、という話も伝わる。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

関ヶ原ののち正則が安芸広島に移ると、才蔵も従って広島へ行った。若いころから愛宕権現を深く信仰し、自分は愛宕の縁日に死ぬと言っていたという。慶長18年6月24日(1613年8月10日)、愛宕の縁日にあたるこの日、身を清めて甲冑をつけ、床几に腰かけたまま亡くなったと伝えられる。60歳だった。遺言で広島の矢賀の坂のかたわらに葬られ、その墓の前を通る者は馬を下りて礼をしたという。

主君を何度も替える生き方は、同じように主家を転々とした藤堂高虎が後世に変節と批判されがちなのと比べ、才蔵の場合はむしろ一筋の武辺者として好まれた。部下を大事にし、武勇にすぐれた者には自分の禄を分けたとも、試合を申し込まれると甲冑に笹の指物をさし、鉄砲を持った部下を連れて現れ、自分の試合は実戦だけだと笑った、とも伝えられる。いまも広島市東区の才蔵寺で祀られ、故郷の御嵩町では願興寺で才蔵をしのぶ催しが開かれている。

動画(1)

戦国最強の首狩り野郎【可児才蔵】戦こそ全てのその人生が熱い!#剣豪武人猛将シリーズ非株式会社いつかやる首に笹を含ませた笹の才蔵の戦いづくめの生涯を語る
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