人物

井伊直政

Ii Naomasa
1561年 – AD1602年3月24日(享年41・推定)
徳川氏重要度 3

概要

徳川四天王の一人。武田の旧臣を率いた「井伊の赤備え」で知られ、関ヶ原の戦いの前後には諸大名との交渉も担った。

本文

井伊直政は1561年(永禄4年)、遠江国井伊谷(いまの静岡県浜松市)の近くで、井伊直親の子として生まれた。幼名は虎松である。井伊氏は代々この地を治めた国人で、当時は今川氏に従っていた。当主の井伊直盛は1560年の桶狭間の戦いで今川義元とともに戦死している。

桶狭間の戦いに関わる図版:Bishū Okehazama-gassen
桶狭間の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

虎松が生まれた翌年、父の直親は謀反を疑われ、今川氏真に殺された。家は直盛の娘が井伊直虎と名乗って継ぎ、虎松は命を狙われて寺に預けられたり、親類のもとを転々としたりして育った。1575年、15歳のとき徳川家康に見いだされて井伊の名に戻ることを許され、万千代と名を改めて家康の小姓となった。

万千代は武田氏との戦いで手柄を立て、1582年に元服して直政と名乗った。同じ年、本能寺の変が起きると、堺にいた家康の伊賀越えに従い、三河へ逃げ帰った。続く旧武田領の争いでは、北条氏との和睦の交渉を任されている。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

家康が甲斐と信濃を手に入れると、直政は武田氏の旧臣を多く加えた部隊を預けられた。武田の名将・山県昌景の部隊は軍装を赤一色にそろえた「赤備え」で知られており、直政の部隊はこれを受け継いだ。新参の若者が重臣に並ぶ、異例の抜擢だった。赤備えはその後も井伊家の軍装として受け継がれ、大坂の陣では子の直孝がこれを率いて戦った。のちに直政は、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政とともに「徳川四天王」と呼ばれることになる。四人のうち、三河以来の家臣でないのは直政だけである。

1584年の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて戦い、名を知られるようになった。小柄で少年のような顔立ちだったが、赤い具足に鬼の角のような飾りの兜をかぶって槍を振るう姿から、「井伊の赤鬼」と呼ばれたという。

家康が豊臣秀吉に従うと、直政は豊臣方からも高く買われた。人質として岡崎に送られてきた秀吉の母・大政所を手厚くもてなし、送り返すときの警護も務めた。秀吉は直政の働きを喜び、自ら茶を点ててもてなしたという。1586年には従五位下に叙せられ、陪臣ながら朝廷の位を得ている。1588年の聚楽第への天皇の行幸では、古くからの重臣たちをおさえて侍従に任じられ、徳川家中で最も格の高い家臣となった。1590年の小田原攻めでは夜襲をかけて城内まで攻め込み、家康の関東移封の後には上野国箕輪で12万石を与えられた。家臣の中でいちばん大きな領地である。のちに居城を南の和田に移し、高崎と名づけた。

1600年の関ヶ原の戦いでは、本多忠勝とともに東軍の軍監を務めた。戦いの前には諸大名に手紙を送り、京極高次らを東軍に引き入れている。本戦では家康の四男・松平忠吉とともに先陣を切ったとされ、抜け駆けとも言われてきたが、霧の中で偶然敵とぶつかったとみる説もある。終盤、退いていく島津義弘の軍を追い、銃で撃たれて落馬した。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

傷を負いながらも、直政は戦後の処理に奔走した。毛利輝元との和睦をとりまとめ、島津氏との交渉を仲立ちし、真田信之の願いを受けて父の昌幸と弟の信繁の助命にも動いた。こうした功で石田三成の旧領である近江の佐和山に18万石で移された。

しかし1602年3月24日、直政は佐和山で亡くなった。数えで42歳である。関ヶ原で受けた傷がもとだったともいわれる。のちに子の代で彦根城が築かれ、井伊家は明治まで彦根藩を治め、譜代大名の筆頭となった。幕末の大老井伊直弼はその子孫である。

直政は自分にも部下にも厳しかったと伝えられる。若いころ陣中で粗末な芋汁を出され、醤油は無いかと尋ねて、大久保忠世に将たる者の心得を諭されたという話が『名将言行録』にある。後世の書物の逸話で確かめようはないが、新参の若者が古参の目にどう映っていたかを伝えている。

動画(1)

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