人物

粟田口国綱

Awataguchi Kunitsuna
12世紀後半 – 1255年頃(享年80・推定)
鎌倉幕府重要度 2

概要

京の粟田口派の刀工。粟田口六兄弟の末弟とされ、天下五剣の一つ「鬼丸」の作者として知られる。

本文

粟田口は、京から東へ向かう道の出口にあたる山城国の地名である。鎌倉時代の初め、ここに住んだ刀工の一門が粟田口派と呼ばれ、山城の刀の名門になった。国綱はその祖とされる国家の子で、国友・久国ら六人兄弟の末弟と伝えられる。通称は藤六、左近将監を名のったという。生まれた年も死んだ年も確かな記録は無く、一説に1255年頃に没したとされる。

後鳥羽上皇は刀を好み、諸国の名工を月ごとに交代で召して太刀を打たせたと伝えられる。これを御番鍛冶といい、国綱もその一人に数えられることがある。ただし御番鍛冶の顔ぶれは後世の刀剣書に書かれたもので、どこまで事実かははっきりしない。上皇は承久の乱に敗れて隠岐へ流され、京の刀工にとって大きな後ろ盾が失われた。

国綱はのちに鎌倉の山内へ移り住んだと伝えられる。鎌倉幕府の成立のもとで鎌倉は武士の都になり、京の名工が招かれて刀を打つようになった。鎌倉ではやがて正宗らの相州伝と呼ばれる作風が生まれ、国綱はその土台を作った一人に数えられることが多い。もっとも、国綱と鎌倉の鍛冶たちがどうつながっていたのかは、刀剣史の上でもまだ解けていない問題である。

国綱の名を不動にしたのが太刀「鬼丸」である。反りが高く、根元で踏ん張った力強い姿をしている。地鉄は細かく詰んだ小板目で、刃文は小さく乱れ、茎(なかご)には太い鏨で「国綱」の二字が切られている。童子切安綱・三日月宗近・大典太光世・数珠丸恒次とともに天下五剣に数えられ、いまは皇室の御物として宮内庁が管理している。

鬼丸には、南北朝から室町時代に作られた外装も伝わっている。黒漆を塗った革で鞘と柄を包んだ太刀の拵で、その形は「鬼丸拵」と呼ばれ、革で包む太刀拵の手本とされてきた。安土桃山時代には、豊臣家の刀剣を管理した本阿弥光徳が名刀の写しを描いた『光徳刀絵図』を何種類も作っており、1588年の写本をはじめ、そのいずれにも鬼丸が載っている。この時代に鬼丸が天下の名刀として扱われていたことが分かる。

鬼丸という名については、軍記物語の『太平記』に伝説がある。北条時政の火鉢に鋳込まれた鬼の飾りを、太刀が斬ったことから名づけられたというのである。ただし時政が生きた時代は国綱の活動期より早く、話の筋が合わない。現代ではこれを北条時頼に置き換えて語ることが多い。一方、鎌倉時代後期の刀剣書『観智院本銘尽』は、北条時宗が京の刀工を鎌倉に呼んで鬼丸を作らせたと記しており、誰の注文だったのかも説が分かれている。

伝来も物語に彩られている。『太平記』では新田義貞が鬼丸を帯び、義貞の死後に足利尊氏がその太刀を求めたと描かれる。のちに鬼丸は足利将軍家に伝わり、豊臣秀吉の時代には刀剣の鑑定を家業とした本阿弥家に預けられた。関ヶ原の戦いの後に徳川家康へ献上されたが、家康は受け取らずに返したと伝えられる。1718年には徳川吉宗が名刀の調べの一環として江戸へ取り寄せて見ている。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

鬼丸には妖しい逸話が多い。狐が逃げ出した、封を切ろうとした小刀がひとりでに落ちた、押形(刀の拓本)が熱病や狐憑きを落とした、といった話である。いずれも本阿弥家の伝えや江戸時代の書物に残る話で、鬼丸が持ち主の間で畏れられていたことを物語っている。明治4年(1871年)、本阿弥家から宮内省に納められ、鬼丸は皇室のものになった。

国綱の作は鬼丸のほかにも、日枝神社、徳川美術館、井伊谷宮などに太刀が残り、重要文化財に指定されている。同じ粟田口派からは、のちに短刀の名手として名高い藤四郎吉光が出ている。国綱の生涯はほとんど分からないが、残された刀そのものが、鎌倉時代の京の刀工の腕の確かさを伝えている。

動画(1)

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