ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
概要
メディチ家を興した人物。ローマの親戚の銀行で修業し、その支店長になり、1397年に独立してフィレンツェに本店を移した。教皇庁の資金を扱う地位を得て、家の富の基礎を築いた。政治では目立たないことを選び、党派の争いに深入りしなかった。1427年のカタスト(財産税)の導入を支持し、富裕層に重く課す税制を受け入れて、庶民の支持を得た。死の床で子に「目立つな、人に憎まれるな」と遺したと伝えられる。
関わったできごと(1)
メディチ銀行AD1397年 · 開いた本文
1360年頃、フィレンツェ。
メディチ家は、13世紀からこの町にいた。ムジェッロ地方(フィレンツェの北)から出てきた一族である。
**有力な家ではなかった**。
(14世紀、メディチ家の何人かが、暴力沙汰と犯罪の記録に現れる。一族は、党派の争いで何度も追放された。)
ジョヴァンニの父アヴェラルド(通称ビッチ)は、5人の子を残して死んだ。家産は乏しかった。
**修業**。
彼は、遠縁の**ヴィエーリ・ディ・カンビオ・デ・メディチ**の銀行に入った。
(ヴィエーリは、当時のメディチ家で最も成功していた人物である。)
ジョヴァンニは、そこで実務を覚え、**ローマ支店長**になった。
**ローマが重要である理由**。
**教皇庁**。
全ヨーロッパの教会が、ローマへ金を送る。十分の一税、聖職禄の初年度収入、そして各種の手数料。
その送金を扱う銀行が、**巨額の資金を、一定期間、手元に置ける**。
(そして、その資金を運用できる。)
1393年、ヴィエーリが引退し、銀行を解散した。
ジョヴァンニは、**ローマの支店を引き継いだ**。
**1397年**。
彼は、本店を**フィレンツェへ移した**。
これが、メディチ銀行の始まりとされる。
資本、約1万フィオリーノ。うち、彼自身が5500。
**組織**。
彼が作った(そして子コジモが完成させた)仕組み。
- **支店を、それぞれ独立した合名会社にする**。 - **支店長を、共同経営者にする**(利益を分ける)。 - 契約に、**細かい制限**を書き込む(誰に貸してよいか、額の上限、禁じられる取引)。 - 毎年、**決算書を本店へ送らせる**。
(この構造の目的は、**危険の分散**と、**動機づけ**である。)
**顧客**。
**(1)教皇庁**。
1410年、対立教皇**ヨハネス23世**(バルダッサーレ・コッサ)が、メディチ銀行を教皇庁の主要な取引銀行にした。
(ジョヴァンニは、彼が枢機卿になるための資金を貸していた、とされる。)
**1415年、コンスタンツ公会議**。教会大分裂を終わらせるための会議。
ヨハネス23世は、廃位された。逮捕され、投獄された。
**ジョヴァンニは、彼を見捨てなかった**。
身代金を払って釈放させ、フィレンツェへ引き取り、生活の面倒を見た。
(1419年、コッサが死んだとき、ジョヴァンニはフィレンツェの洗礼堂に、**ドナテッロとミケロッツォによる豪華な墓碑**を作らせた。廃位された対立教皇の墓が、市の中心の洗礼堂にある。
——これは、単なる義理ではない。**メディチ銀行が、義理堅い**という評判を、全ヨーロッパに示す広告でもあった。)
**(2)明礬**。
染色に不可欠な鉱物。当時、主にオスマン領から輸入されていた。
(後に、1462年、教皇領のトルファで鉱山が発見され、メディチ銀行がその独占的な販売権を得る。)
**(3)毛織物と絹**。
銀行だけでなく、**製造業**も持った。フィレンツェの毛織物工房と、絹織物工房。
**政治**。
彼は、**目立たないこと**を選んだ。
- 公職には、最低限しか就かなかった(1421年に**ゴンファロニエーレ**〈正義の旗手、市の最高職〉を一度務めた)。 - 党派の争いに、深入りしなかった。 - 有力者(アルビッツィ家)と、正面から対立しなかった。
**1427年、カタスト**。
フィレンツェが、新しい財産税を導入した。
各世帯が、**全財産を申告する**。土地、家、家畜、事業、債権、そして債務。それに応じて課税する。
(この記録が、いまも残っている。フィレンツェの1427年の全世帯の財産の詳細が分かる。歴史人口学と経済史の、極めて貴重な史料である。)
**ジョヴァンニは、これを支持した**。
彼は、**フィレンツェで最も裕福な部類**である。だから、最も多く払うことになる。
それでも支持した。
理由——それまでの税は、**強制公債**という形で、中間層と小商人に重くのしかかっていた。カタストは、富裕層により重い。
彼は、**庶民(ポポロ・ミヌート)の支持**を得た。
(歴史家は、これを彼の政治的な計算と見る。有力者の党派に属さない彼にとって、庶民の支持が、権力の基盤になる。実際、7年後、コジモが追放から帰還できたのは、この基盤による。)
**遺言**。
1429年2月20日、死去。約69歳。
死の床で、子コジモとロレンツォに与えたとされる言葉が、伝わっている。
(同時代の伝記作家ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチと、後の記述による。正確な文言は確定しない。)
「**人前で目立つな**」。
「**人民の意志に反することをするな**」。
「**訴訟を避けよ**」。
「**政庁の建物には、呼ばれたときだけ行け**」。
「**人の嫉妬を、避けよ**」。
(つまり——**権力を持て。ただし、持っているように見せるな**。)
コジモは、この教えを守った。
彼は、生涯、公式には一市民であり続けた。称号を持たず、宮殿を——豪華すぎない範囲で——建て、そして市の実質的な支配者だった。
(コジモの死後、市が彼に贈った称号は「**パーテル・パトリアエ**」(国父)。彼の墓石に、その語だけが刻まれている。)
**財産**。
1429年の彼の死の時点で、彼はフィレンツェで**2番目**に裕福だった、と1427年のカタストの記録から分かる。
(1位は、パッラ・ストロッツィ。彼は1434年、コジモによって追放される。)
**残ったもの**。
彼が始めた銀行は、彼の死の65年後に潰れた。
彼が始めた家は、その後**300年**続き、二人の教皇と、二人のフランス王妃と、トスカーナ大公を出した。
そして、その家が集めた美術品が、いまフィレンツェにある。