人物

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ

Giovanni di Bicci de' Medici
AD1360年 – AD1429年2月20日(享年69・推定)
フィレンツェ共和国重要度 4

概要

メディチ家を興した人物。ローマの親戚の銀行で修業し、その支店長になり、1397年に独立してフィレンツェに本店を移した。教皇庁の資金を扱う地位を得て、家の富の基礎を築いた。政治では目立たないことを選び、党派の争いに深入りしなかった。1427年のカタスト(財産税)の導入を支持し、富裕層に重く課す税制を受け入れて、庶民の支持を得た。死の床で子に「目立つな、人に憎まれるな」と遺したと伝えられる。

関わったできごと(1)

メディチ銀行AD1397年 · 開いた

本文

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチは1360年ごろ、フィレンツェに生まれた。メディチ家は13世紀からこの町にいた一族で、北の山あいのムジェッロ地方から出てきたとされる。名門ではなかった。14世紀の記録には、暴力沙汰や犯罪でメディチ家の名がたびたび現れ、党派の争いに負けて追放された者もいる。父アヴェラルド(通称ビッチ)は、ジョヴァンニが幼いうちに妻と5人の子を残して死んだ。家産は乏しかった。

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチの肖像(ブロンズィーノ画)
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチの肖像(ブロンズィーノ画)Wikimedia Commons Workshop of Bronzino · Public domain

若いジョヴァンニは、遠縁のヴィエーリ・ディ・カンビオ・デ・メディチの銀行に入った。ヴィエーリは当時の一族でいちばん成功していた商人である。ジョヴァンニはそこで帳簿と為替の実務を覚え、やがてローマ支店をまかされた。ローマが大事だったのは、教皇庁があったからだ。ヨーロッパ中の教会が、十分の一税や聖職に就いた最初の年の収入、さまざまな手数料をローマへ送る。その送金を扱う銀行は、巨額の資金を一定の期間手元に置き、動かすことができた。

1393年、ヴィエーリが引退して銀行をたたむと、ジョヴァンニはローマの支店を引き継いだ。1397年、彼は本店をフィレンツェへ移した。これがメディチ銀行の始まりとされる。元手は約1万フィオリーノで、そのうち5500を彼が出した。

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチの胸像(ロメオ・パッツィーニ作、リミニ市立博物館)
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチの胸像(ロメオ・パッツィーニ作、リミニ市立博物館)Wikimedia Commons JoJan · Public domain

銀行の形も、彼の代に固まり始めた。各地の支店をそれぞれ独立した組合にし、支店長を共同経営者にして利益を分ける。契約書には、誰に貸してよいか、貸す額の上限、禁じる取引を細かく書き込み、毎年の決算書を本店に送らせる。一つの支店がつまずいても全体が倒れないようにし、支店長には自分の店として働く理由を与える仕組みである。この形は、子のコジモの代に完成する。

最大の顧客は教皇庁だった。教会大分裂のさなか、ピサの公会議の流れをくむヨハネス23世(バルダッサーレ・コッサ)が1410年に教皇になると、メディチ銀行は教皇庁の主な取引銀行になった。ジョヴァンニは、コッサが枢機卿になるための資金を貸していたとされる。ところが1415年、分裂を終わらせるために開かれたコンスタンツ公会議で、ヨハネス23世は廃位され、捕らえられた。

教会大分裂に関わる図版:Grandes Chroniques de Frances de Charles V - BNF fr2813 f208 (Clercs se disputant)
教会大分裂Wikimedia Commons Public domain

ジョヴァンニは彼を見捨てなかった。身代金を払って釈放させ、フィレンツェに迎えて暮らしの面倒を見た。1419年にコッサが死ぬと、ドナテッロとミケロッツォに豪華な墓碑を作らせ、町の中心にある洗礼堂に納めさせた。廃位された教皇の墓が、いまもそこにある。義理堅さの表れであると同時に、メディチ銀行は困ったときも客を見捨てない、とヨーロッパ中に示す広告でもあった。

彼は銀行だけでなく、毛織物と絹織物の工房も持った。教会と商人の両方から金が流れ込む仕組みである。1420年代には、ブルネレスキにサン・ロレンツォ聖堂の建て直しを頼み、その聖具室(いまの旧聖具室)の費用を出した。これがメディチ家とブルネレスキ、ひいてはフィレンツェの芸術家たちとの長い縁の始まりになる。

政治では、彼はあえて目立たない道を選んだ。公職には最低限しか就かず、1421年に市の最高職である正義の旗手を一度務めた程度だった。町を牛耳っていたアルビッツィ家と正面からぶつかることもせず、党派の争いに深入りしなかった。

1427年、フィレンツェはカタストと呼ばれる新しい財産税を入れた。各世帯が土地、家、家畜、事業、貸した金と借りた金まで全財産を申告し、それに応じて税を払う。この申告書はいまも残っていて、1427年のフィレンツェの全世帯の暮らしが分かる、歴史人口学と経済史の貴重な史料になっている。

町でも指折りの金持ちだったジョヴァンニは、最も多く払う側にいた。それでも彼はこの税を支持した。それまでの税は強制的な公債という形で、中ほどの市民や小商人に重くのしかかっていた。カタストは富む者により重い。彼はこれで、庶民の支持を得た。歴史家はここに政治の計算を見る。有力な党派に属さない彼にとって、庶民の支持こそが力の土台になる。実際、子のコジモが1433年に追放されたあと、翌年に呼び戻されたのは、この土台があったからだった。

カタストの記録では、彼はパッラ・ストロッツィに次ぐ、町で2番目の金持ちだったとされる。そのストロッツィは、1434年にコジモによって追放される。

1429年2月20日、ジョヴァンニは死んだ。70歳に近かった。ニッコロ・マキャヴェッリは『フィレンツェ史』で、彼が死の床で子のコジモとロレンツォに与えた教えを伝えている。人々の意志に逆らうな、政庁には呼ばれたときだけ行け、訴えごとを避けよ、人目を引くな。正確な言葉は分からないが、言わんとするところははっきりしている。力を持て、ただし持っているように見せるな。

コジモはこの教えを守った。生涯、肩書きの上ではただの一市民であり、屋敷も豪華すぎない範囲で建て、それでいて町の実質の支配者だった。死後、市は彼に「国父」の称号を贈った。ジョヴァンニは、自分が建て直させたサン・ロレンツォ聖堂の旧聖具室に眠っている。

彼が始めた銀行は、死から65年後の1494年に倒れた。一方、彼が興した家はその後300年あまり続き、教皇を出し、二人のフランス王妃を出し、トスカーナ大公国を治めた。曽孫にあたるロレンツォ・デ・メディチの時代、フィレンツェはルネサンスの頂点を迎える。その家が集めた美術品が、いまもフィレンツェにある。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1360年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →