できごと

エジプト・ヒッタイト平和条約

Egyptian–Hittite peace treaty
BC1259年
重要度 5
エジプト・ヒッタイト平和条約に関わる図版:Karnak Ägyptisch-Hethitischer Friedensvertrag 06
Karnak Ägyptisch-Hethitischer Friedensvertrag 06 Wikimedia Commons Olaf Tausch · CC BY 3.0

概要

現存する最古の国際和平条約。両国の言語で書かれた版が双方に残っている。

関わった人(1)

ラムセス2世BC1303年頃–BC1213年頃 · エジプト側 · 締結

本文

紀元前13世紀、オリエントの二大国、ナイル川のエジプトとアナトリアのヒッタイトは、シリアの支配をめぐって長く争っていた。地中海の東岸からユーフラテス川に至るこの地域には、交易で栄える都市国家がひしめいており、どちらの大国も、それを自分の勢力圏に収めたがっていた。

両国が真正面からぶつかったのが、紀元前1274年頃のカデシュの戦いである。若いラムセス2世は大軍を率いてシリアの要衝カデシュに迫ったが、ヒッタイト王ムワタリ2世の待ち伏せに遭い、危うく全軍が崩れかけた。ラムセス2世は、自分がほとんど一人で敵の大軍を蹴散らしたと誇り、その場面をアブ・シンベルやカルナックなど各地の神殿の壁に刻ませた。だが実際には、カデシュはヒッタイトの手に残り、戦いは引き分けか、エジプトにとって不利な結果に終わったと考えられている。その後も十数年、両国の小競り合いは続いた。

カデシュの平和条約(イスタンブル考古学博物館)
カデシュの平和条約(イスタンブル考古学博物館)Wikimedia Commons Iocanus ( talk ) · CC BY 3.0

和平へ向かう事情は、主にヒッタイトの側にあった。ムワタリ2世の死後、王位を継いだ甥を、叔父のハットゥシリ3世が追い落として王になった。追われた前王はエジプトへ亡命し、ハットゥシリの王位は国内外で正統性を疑われていた。東では、アッシリアが勢力を伸ばし、かつての大国ミタンニの地を飲み込んで、ヒッタイトの国境に迫っていた。エジプトと争い続ける余裕は、ヒッタイトには無かった。

紀元前1259年頃、ラムセス2世の治世21年目に、両国は平和条約を結んだ。ヒッタイトの側は、条約の文面を銀の板に刻んでエジプトに届けた。エジプトの版は、その銀板に押されていた印章のことまで詳しく書き留めている。ヒッタイトの嵐の神が王を抱く図柄と、王妃プドゥヘパの印である。銀板そのものは残っていないが、その内容は、エジプトのカルナック神殿とラムセウムの壁にヒエログリフで刻まれた。エジプトの版は、届いた銀板のアッカド語の文面をエジプト語に訳したものと考えられており、言い回しにも訳文らしい跡が見られるとされる。

ラムセス2世の王妃ネフェルタリ
ラムセス2世Wikimedia Commons Maler der Grabkammer der Nefertari · Public domain

一方、ヒッタイトの都ハットゥシャ、いまのトルコのボアズキョイの遺跡からは、1906年からの発掘で、粘土板に楔形文字で書かれた条約の写しが見つかった。言葉は、当時の国際外交の共通語だったアッカド語である。こうして、同じ条約の双方の版が、3000年以上の時を越えてそろうことになった。

両方の版を突き合わせると、内容はおおむね一致している。両国は永遠の平和と兄弟の関係を結び、互いに相手の国を攻めない。第三国から攻められたときや、国内で反乱が起きたときには、求めに応じて援助する。そしてもう一つ、大きな位置を占めるのが、亡命者の引き渡しの取り決めである。一方の国から逃げてきた者は、身分の高い者も低い者も、もとの国へ送り返す。

注目されるのは、引き渡された者を罰してはならない、という条項である。送り返された者の罪は問われず、その家も妻も子も損なわれてはならず、目や耳や足を傷つけられてもならない、と書かれている。亡命者の扱いに人道的な配慮を求めた、最も古い国際的な取り決めの一つとされる。ハットゥシリが恐れていた、エジプトに逃げた前王の存在を思えば、この条項には切実な理由があった。条約の終わりには、両国の千の神々が証人として名を連ねている。

細部には、それぞれの言い分が表れている。エジプトの版は、和平を求めてきたのはヒッタイトの王だと書き、ヒッタイトの版は、エジプトの王が求めてきたと書く。どちらも自分の側が先に頭を下げたとは書かない。ヒッタイトの版には、ハットゥシリの息子が王位を継ぐことをエジプトが支えるという、ハットゥシリにとって切実な条項もある。条約は、それぞれの国内向けには、自国の威信を保つ形に整えられていた。

和平は、文面だけのものではなかった。条約の後、両国の宮廷の間では盛んに手紙が交わされた。ラムセス2世とハットゥシリ3世だけでなく、ラムセスの王妃ネフェルタリとプドゥヘパの間でも、贈り物と挨拶の手紙がやりとりされている。紀元前1246年頃、ラムセス2世の治世34年目には、ハットゥシリの娘がエジプトに嫁ぎ、ラムセスの正式な妃の一人になった。その婚礼は、アブ・シンベルの神殿に建てられた碑にも記されている。

条約の後、エジプトとヒッタイトが再び戦ったという記録は無い。平和は、紀元前12世紀の初め、海の民の侵入と青銅器時代の終わりの時代の大混乱の中でヒッタイトの国そのものが滅ぶまで続いたと考えられている。ラムセス2世は、その後も長く王位にあり、60年を超える治世を全うした。

ハットゥシャの遺跡は1986年に世界遺産に登録された。そこで見つかった粘土板の一つは、いまイスタンブールの考古学博物館に収められている。1970年、トルコはその拡大した複製を国際連合に贈り、ニューヨークの国連本部に掲げられた。3000年あまり前の二つの大国が、戦いの後で結んだ約束が、戦争を防ぐための機関の建物に飾られているのである。

同じ時代のできごと

甲骨文字紀元前13世紀カデシュの戦いBC1274年出エジプト(伝承)BC1250年頃(伝承)
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