ヒクソスのエジプト支配
概要
レヴァントから来た人びとがデルタに王朝を建てた。馬と戦車と複合弓がエジプトに入ったのはこのとき。追い出した側が、その武器で帝国を作る。
場所
30.79°N 31.82°E · エジプト・シャルキーヤ県(テル・エル=ダバア)
本文
紀元前2千年紀の初め、エジプトは中王国の時代にあった。王たちはナイルの流れを治め、ヌビアに砦を築き、東の国境にも守りを置いた。だが紀元前18世紀ごろから王の力は弱まり、王が短い間に次々と入れ替わるようになる。そのころ、ナイル川の河口に広がるデルタの東部には、シナイ半島の向こうのレヴァント(いまのパレスティナ、シリアの沿岸)から来た人々が多く住みついていた。船乗りや職人、兵士、牧畜をする人々で、エジプトに雇われて来た者もいた。
やがてデルタの東部に、こうした人々を出自とする王たちが現れた。エジプト人は彼らを「ヘカウ・カスウト」、つまり「異国の地の支配者たち」と呼んだ。これがギリシア語に写されて「ヒクソス」になったと考えられている。紀元前1650年ごろから、ヒクソスの王たちは第15王朝としてデルタを中心に北エジプトを治め、南のテーベには、エジプト人の王家が細々と残った。両者の境は中部エジプトのあたりにあった。

後の時代のエジプトの神官マネトは、ヒクソスについて、東から突然野蛮な一団が攻め込んできて、町を焼き、神殿を壊し、住民を虐げた、と書いた。この話はユダヤ人の歴史家ヨセフスの引用を通じて伝わり、長いあいだヒクソスは侵略者として語られてきた。しかし20世紀の後半、オーストリアの調査団がヒクソスの都アヴァリス(いまのテル・エル=ダバア)を発掘すると、違う姿が見えてきた。町はヒクソスの王朝が成立するより何世代も前から、レヴァント風の家と墓が並ぶ外国人の町として育っていたのである。2020年には、そこに葬られた人々の歯の成分を調べた研究で、多くの移住者が長い年月をかけて少しずつやってきたことが示された。急な侵略ではなく、移り住んでいた人々が王朝の衰えに乗じて権力を取った、という見方がいまは有力である。
ヒクソスの王たちは、エジプトの王の称号を名乗り、エジプトの神々を祀り、エジプトの書記を使った。数学の文書として名高い「リンド・パピルス」は、ヒクソスの王アペピの治世に書き写されたものである。地中海のクレタやキプロス、レヴァントとの交易も盛んで、アヴァリスはその拠点になった。

そしてこの時代、エジプトにはそれまで無かった技術が入ってきた。馬と、馬に引かせる軽い二輪の戦車。木と角と腱を貼り合わせて強い力を出す複合弓。新しい形の青銅の剣や斧、鎧。縦型の機織り機や、新しい楽器もこのころに現れる。すべてをヒクソスが持ち込んだと言い切れるわけではないが、彼らを通じてレヴァントの技術が流れ込んだことは確かだろう。
南のテーベの王家は、こうした武器を自分たちのものにして反撃に出た。テーベの王セケンエンラー・タアのミイラには、頭に斧や槍による深い傷が残っており、ヒクソスとの戦いで死んだ可能性が高い。その子とみられるカーメスは北へ攻め上り、ヒクソスの王が南のクシュ(ヌビア)の王に、テーベを挟み撃ちにしようと持ちかけた手紙を途中で奪った、と自らの記念碑に記している。そしてカーメスの跡を継いだイアフメス1世が、紀元前1550年ごろアヴァリスを落とし、ヒクソスをパレスティナまで追って、その拠点の町を3年がかりで落としたと、従軍した兵士の墓の碑文が伝える。

こうして始まったのが新王国である(エジプト新王国)。追い出した側は、ヒクソスから学んだ戦車と弓を武器に、二度と外から脅かされないよう、自ら外へ出て行った。トトメス1世やトトメス3世はシリアに攻め込み、ユーフラテス川にまで達した。エジプトはナイルの国から、レヴァントとヌビアにまたがる帝国になり、のちにはカデシュの戦いでヒッタイトと戦車で渡り合う。その帝国の武器は、敵から学んだものだった。
その後のエジプトは、ヒクソスの時代を屈辱として記憶した。ハトシェプストは、自分がアジア人の残した荒廃を立て直したと碑文に刻ませている(ハトシェプストの治世)。また、ヨセフスはヒクソスの追放を、旧約聖書のイスラエル人のエジプト脱出と結びつけた。ヤコブの子ヨセフがエジプトで高い地位につき、一族を呼び寄せる物語を、この時代に重ねる説もある。ただ、聖書の物語とヒクソスを結びつける考古学の証拠は無く、多くの学者は慎重な立場をとっている。