ディアトロフ峠事件
概要
ソ連のウラル山脈北部で、スキー登山の学生ら9人がテントを内側から裂いて逃げ出し、全員が死んだ。長く謎とされ、2020年に雪崩が原因と結論された。
場所
61.75°N 59.45°E · ロシア・スヴェルドロフスク州
本文
1959年1月、ソ連のスヴェルドロフスク(今のエカテリンブルク)にあるウラル工科大学の学生を中心とする10人の一行が、ウラル山脈の北部へスキー登山に出かけた。率いたのは23歳の学生イーゴリ・ディアトロフである。全員が経験を積んだ登山者で、この行程を終えれば、当時のソ連で最も高い等級の資格が得られるはずだった。目指したのは北ウラルのオトルテン山で、およそ300キロを雪の中で進む計画だった。
テントに残されていた書類によれば、この山行は翌月に開かれるソ連共産党の第21回大会にちなんだものだったとされる。一行には、別の隊から移ってきた30代の登山指導員セミョーン・ゾロタリョフも加わっていた。
一行は1月23日にスヴェルドロフスクを列車で発ち、イヴデリの町から人の住む最後の村ヴィジャイへ入って、27日に山へ向かった。翌28日、一人が膝の痛みのために引き返した。これが、ただ一人生き残ることになるユーリー・ユーディンである。残る9人、男7人と女2人は川沿いに進み、31日には帰りのための食料と道具を森に隠した。
2月1日、一行は峠を越えようとしたが、吹雪で視界を失って西へそれ、ホラート・シャフイル山の東の斜面に出た。この山の名は、先住民マンシの言葉で「死の山」と訳されることが多い。彼らは森まで下りずに、斜面にテントを張った。日記と写真がたどれるのはここまでである。
残されたカメラのフィルムには、雪の中を進む一行の明るい表情が写っていた。
森まで下りれば風を避けられたが、ディアトロフは稼いだ高さを失いたくなかったか、斜面での野営を練習しようとしたのだろう、と引き返したユーディンはのちに語っている。
予定の日を過ぎても連絡は無く、2月20日から捜索が始まった。26日、捜索隊は斜面に半ば雪に埋もれたテントを見つけた。テントは内側から刃物で切り裂かれていた。中には靴も上着も残されたままで、テントから下へ向かって、靴下や裸足のままの足跡が続いていた。1.5キロほど下った森の端の杉の木の下で、焚き火の跡とともに二人の遺体が見つかった。下着姿に近かった。杉とテントの間の斜面では、テントへ戻ろうとしたかのような姿勢でディアトロフら三人が倒れていた。
残る4人が見つかったのは、雪が解けた5月である。杉の木からさらに離れた谷川の雪の下にいた。こちらの遺体には大きな傷があった。一人は頭蓋骨が砕け、二人は胸の骨が何本も折れていた。目や舌が失われた遺体もあった。9人のうち6人の死因は低体温症、3人は強い力による外傷とされた。夜の冷え込みは零下40度近かったと考えられている。
当時の捜査は1959年5月に打ち切られ、死因は「抗しがたい自然の力」とだけ記された。地域はその後しばらく立ち入りが制限され、記録の多くは長く公にされなかった。そのことが、さまざまな説を生んだ。雪崩、強い風、軍のロケットや兵器の実験、地元の人々や逃亡者による襲撃、秘密の取引に巻き込まれたという説、さらには未知の現象まで、多くの説が唱えられてきた。
ソ連が崩れた後、資料の公開が進み、2019年にロシアの検察が調べ直しを始めた。翌2020年、検察は、小規模な雪崩がテントを襲い、視界の悪い中で一行がやむなく逃げ出し、低体温症で死んだと結論した。2021年には、スイスの研究者が、張った雪の板が崩れる型の雪崩で、遺体の傷の一部も説明できるとする研究を発表した。それでも、遺族や研究者の中には、この結論に納得しない声も残っている。一行がテントを張った場所の近くの峠は、彼らを悼んで「ディアトロフ峠」と名づけられ、岩の上には記念の碑が置かれている。