人物

チャールズ・バベッジ

Charles Babbage
AD1791年12月26日 – AD1871年10月18日(享年79)
イギリス重要度 4

概要

ロンドンの銀行家の子。ケンブリッジで解析協会を作り、ニュートン流の記法を捨ててライプニッツ流を導入した。階差機関と解析機関の設計者。天文学会の創設、郵便料金の均一化の提案、機関車の前の障害物除け、灯台の点滅信号、産業の工程の分析(『機械化と製造業の経済』)。街頭の辻音楽が騒がしいという運動でも知られ、子どもに追いかけられた。晩年は不機嫌な老人として有名だった。

関わったできごと(1)

バベッジの階差機関と解析機関AD1837年 · 設計した

本文

チャールズ・バベッジは1791年12月26日、ロンドンに生まれた。父ベンジャミンは銀行家で、家は裕福だった。体の弱い子で、学校を何度も替わった。ある私塾の図書室で代数の本を見つけ、夜中に起き出して読みふけったと、のちに回想している。

チャールズ・バベッジ(1860年)
チャールズ・バベッジ(1860年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1810年、ケンブリッジ大学に入った。だが失望した。彼はすでに独学で、ラグランジュやラプラスといった大陸の数学者の本を読んでいた。ところがケンブリッジで教えられていたのは、アイザック・ニュートンが使った古い記法の微積分だった。微積分の発明をめぐるゴットフリート・ライプニッツとの先取権争いの名残で、イギリスはニュートン流の記法にこだわり、大陸の数学から取り残されていたのである。1812年、バベッジはジョン・ハーシェル、ジョージ・ピーコックらと「解析協会」を作り、ライプニッツ流の記法を大学に持ち込もうとした。大陸の教科書を訳し、やがて大学の試験にも新しい記法が使われるようになった。

1814年、父の反対を押し切ってジョージアナ・ウィットモアと結婚し、8人の子をもうけたが、多くは幼くして死んだ。1827年には、父、妻、そして二人の子を同じ年に失った。打ちのめされた彼は、1年あまり大陸を旅して過ごした。

The Illustrated London News(1871年11月4日)より
The Illustrated London News(1871年11月4日)よりWikimedia Commons anonymous · Public domain

当時、航海や天文、保険の計算には、数表が欠かせなかった。表は人が手で計算して作るため、誤りが多く、印刷の段階でも誤りが入り込んだ。誤った表を信じた船は座礁しかねない。バベッジは、多項式の値を差分の足し算だけで次々に求める方法を歯車で実行させれば、計算から印刷までを機械にやらせられると考えた。1822年に小さな試作機を作って発表し、翌年、政府が資金を出すことになった(バベッジの階差機関と解析機関)。

それから20年、この計画が彼の人生を占めた。腕のいい技師ジョゼフ・クレメントを雇い、必要な精度の歯車を作るために、工作機械そのものから改良させた。この過程で磨かれた精密な加工の技術は、イギリスの機械工業に大きく役立ったとされる。だが費用はふくらみ、1833年、支払いをめぐってクレメントと決裂した。クレメントは図面と工具を抱えて去った。当時は、工具は職人のものという慣行だったのである。1842年、政府は計画を打ち切った。それまでに注ぎ込んだ公金は1万7000ポンドにのぼった。

バベッジの墓
バベッジの墓Wikimedia Commons Astrochemist · Public domain

その間に、バベッジの頭はもっと先へ進んでいた。1834年ごろから構想した「解析機関」は、決まった計算しかできない階差機関と違い、穴を開けたカードで手順を与えれば、どんな計算でもこなせる機械だった。数を蓄える部分と、演算する部分を分け、途中の結果によって次の手順を変えることも、同じ手順を繰り返すこともできる。いまのコンピューターの骨組みを、蒸気の時代に歯車で描いたのである。詩人バイロンの娘エイダ・ラブレスは、この機械についての解説に詳しい注釈を付け、数だけでなく記号や音楽まで扱えるかもしれないと書いた(エイダ・ラヴレスの覚え書き)。政府はもう金を出さず、バベッジは私財を投じて、死ぬまで図面を描き続けた。機械は完成しなかった。

彼の関心は機械だけではなかった。1828年から11年間、かつてニュートンが就いたケンブリッジのルーカス数学教授の椅子にあったが、講義は一度もしなかった。1832年の『機械化と製造業の経済について』では、工場の作業を細かく分け、それぞれに必要な技能と賃金を分析した。作業を分割すれば、各部分に必要な最低限の技能の人を雇えるので費用が下がる、という指摘は、のちにマルクスが『資本論』(『資本論』)で引いている。手紙を運ぶ費用の多くは距離ではなく取り扱いにかかる、という彼の分析は、のちの郵便の均一料金(ペニー・ブラックと郵便改革)の考えを支えたとされる。ほかにも、灯台の光を決まった間隔で遮って灯台ごとに見分けられるようにする方式を考え、当時は破れないとされた暗号を解き(公表しなかったため、功績は別の人に帰した)、統計の学会の設立にも関わった。

『資本論』に関わる図版:Zentralbibliothek Zürich Das Kapital Marx 1867
『資本論』Wikimedia Commons Zentralbibliothek Zürich · Public domain

人とはよく衝突した。1830年に出した本では、王立協会が科学者ではなく貴族と縁故で動いていると、名指しで攻撃した。以後、彼は科学界の主流から疎まれた。

晩年の彼を有名にしたのは、街の辻音楽との戦いだった。手回しオルガンや金管楽器を鳴らして小銭を求める楽師たちのせいで、仕事の時間の4分の1を失っていると訴え、楽師を警察に突き出し、議会に働きかけた。1864年には街頭の音楽を取り締まる法律が通った。仕返しに、楽師や子どもたちが彼の家の前に集まってわざと演奏し、囃し立て、外出すると群衆がついて回ったという。

サイエンス・ミュージアムには、チャールズ・バベッジの脳が展示されている。
サイエンス・ミュージアムには、チャールズ・バベッジの脳が展示されている。Wikimedia Commons Alan Levine from Strawberry, United States · CC BY 2.0

1871年10月18日、バベッジはロンドンで死んだ。79歳だった。新聞の死亡記事は、彼の数学と機械を紹介したうえで、辻音楽への敵意でいちばん広く知られていたかもしれない、と書いた。脳は遺言で保存され、いまもロンドンの博物館に残っている。

1991年、生誕200年を記念して、ロンドンの科学博物館は彼の設計図どおりに階差機関2号の計算部分を組み立てた。部品はおよそ4000個、重さは2.6トン。機械は動き、正しい答えを出した。彼の設計に誤りはほとんどなく、足りなかったのは時代の加工の技術と、資金と、彼自身の人づきあいだったのである。

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