ウル・ナンム
概要
現存する最古の法典を残した。ハンムラビより300年早く、罰は「目には目を」ではなく罰金が多い。
関わったできごと(1)
ウル・ナンム法典BC2100年頃 · 制定本文
ウル・ナンムは、メソポタミア南部のシュメールの都市ウルを都に、紀元前2112年ごろから2095年ごろまで王位にあったとされる。年代は研究者の採る年表によって数十年ずれる。生まれも前半生も分からない。分かっているのは、王になる前、隣の都市ウルクの王ウトゥ・ヘガルのもとでウルの総督を務めていたらしいことだ。二人は兄弟だった、あるいは娘婿だったという説があるが、決め手は無い。

その少し前、メソポタミアはサルゴンが築いたアッカドの帝国(アッカドのサルゴン)の支配下にあった。帝国が衰えると、東の山地からグティと呼ばれる人々が入り込み、各地の都市はばらばらになった。ウトゥ・ヘガルはグティを打ち払ったと誇ったが、その治世は短かった。ウル・ナンムはウトゥ・ヘガルの死後に自立し、ウルの王となった。これがウル第三王朝の始まりである。
ウル・ナンムは南のシュメールの諸都市を従え、「シュメールとアッカドの王」と名乗った。ラガシュの支配者ナムハニを討ったことが碑文に残る。各地で運河を掘り、農地を広げた。運河が通ったことで、船が港に着き、交易が戻ったと誇っている。

もっとも目に見える業績は、神殿の建設だった。ウル、ウルク、エリドゥ、ニップルといった都市に、日干し煉瓦を積み上げた巨大な階段状の塔、ジッグラトを築いた。ウルの月の神ナンナのジッグラトは、20世紀にイギリスの考古学者ウーリーが掘り出し、下の段がいまもイラク南部の平野に立っている。正面と階段の一部は、1980年代に修復されたものである。
そしてウル・ナンムの名を後世に知らせたのが、ウル・ナンム法典である。シュメール語で粘土板に書かれ、1950年代に、イスタンブールの博物館に眠っていたニップル出土の断片を、アメリカのシュメール学者クレイマーが読み解いて世に知られた。のちにウルなどからも断片が見つかっている。現存する法典としては最古で、ハンムラビ法典より300年あまり早い。ただし、王の名が欠けていることもあって、実際に定めたのは息子のシュルギだとする研究者もいる。

前文には、王が何をしたかが並んでいる。升や重さの単位を定め、銅の升、1ミナの重りをこしらえたこと。孤児が富める者に、寡婦が力ある者に、1シェケルしか持たない者が1ミナを持つ者に、引き渡されないようにしたこと。法を作ることが、弱い者を守る王のつとめとして語られている。
条文の中身は、ハンムラビの法典と比べるとはっきり違う。殺人や強盗は死刑だったが、傷害については、多くの場合、銀で償わせている。人の足を切った者は銀10シェケル、骨を折った者は1ミナ、鼻を削いだ者は3分の2ミナ、歯を折った者は2シェケル、といった具合だ。ハンムラビの法典では、同じ身分の者どうしなら目には目を、歯には歯をの同害報復になる。後の時代のほうが刑が身体刑へ厳しくなったことになるが、なぜそうなったかはよく分かっていない。

ウル・ナンムの死は、のちにシュメール語の詩に歌われた。戦場で倒れ、壊れた壺のように打ち捨てられた、と嘆く詩で、王が戦いの中で死んだことをうかがわせる。死者の国に降りた王が、神々に贈り物をささげる場面も描かれている。
跡を継いだシュルギは半世紀近く在位し、文字の書き方、暦、度量衡、役所の記録の様式を国じゅうでそろえた。シュメールの英雄ギルガメシュをめぐる物語がまとまった形に書かれたのも、この王朝の時代と考えられている(『ギルガメシュ叙事詩』)。王朝はおよそ100年続き、紀元前2004年ごろ、東のエラムに攻められてウルが落ちた。ウル・ナンムが整えた度量衡と法の考え方は、楔形文字(楔形文字の成立)で記録を残した後の王たちに引き継がれた。