アッカドのサルゴン
概要
複数の都市国家を一人の下に置いた。記録に残る最初の「帝国」とされる。
場所
33.10°N 44.10°E · イラク中部(都の位置は特定されていない)
関わった人(2)
エンヘドゥアンナBC2285年頃–BC2250年頃 · 娘。大神官サルゴン当人本文
サルゴンが現れる前のメソポタミア南部には、ウル、ウルク、ラガシュ、ウンマといった都市国家が並んでいた。それぞれが自分の神と王を持ち、運河の水と畑の境をめぐって何百年も争ってきた。ある都市が周りを従えても、覇権は長続きせず、別の都市に移っていく。ウルク。都市というものの始まりに始まった都市の世界は、そういう状態が続いていた。
サルゴンの出自ははっきりしない。シュメールの王名表には、キシュの王ウル・ザババの酌人(杯を捧げる役)だったと書かれている。名前のシャルルキーン(サルゴン)は「正統な王」という意味で、王家の生まれでない者が自分の正しさを名乗った名だと考えられている。彼はキシュを離れ、新しい都アッカド(アガデ)を築いた。この都の場所は、いまも見つかっていない。

決定的だったのは、南部の覇者だったウルクの王ルガルザゲシとの戦いである。サルゴンはこれを破り、ルガルザゲシに首枷をはめてニップルの神殿の門まで連れて行ったと、自分の碑文に書いている。続いてウル、ラガシュなどを次々に落とし、「武器を海で洗った」と記した。ペルシア湾に達したという意味である。碑文はさらに、西はユーフラテス上流のマリやエブラ、「杉の森と銀の山」まで手を伸ばしたと言う。在位は50年を超えたとされるが、年代には数十年の幅がある。
征服の仕方に新しさがあった。落とした都市の城壁を壊し、アッカドから送った者を各地の長に据えた。毎日5400人が自分の前で食事をとったと碑文は誇っている。王に直接仕える大勢の兵や役人を抱えていたことを示すと読まれ、常備軍の始まりとする見方もある。アッカドの港には、ディルムン(バハレーン)、マガン(オマーン)、メルッハ(インダス流域とされる)の船が着いたとも書かれている。

美術にも、この王朝らしい力強さが出ている。ニネヴェで見つかった等身大に近い青銅の男の頭部は、ひげを細かく編んだ堂々とした顔で、サルゴンかナラム・シンを表したものと考えられている。ナラム・シンの戦勝碑では、王が角のある冠をかぶって山を登り、敵を踏みつける姿が大きく彫られた。王を人並み外れた存在として見せる表現が、ここで定まっていく。
宗教も押さえた。娘のエンヘドゥアンナをウルの月神ナンナの大神官に据えた。南部の古い信仰の中心に、北から来た王家の者を置いたことになる。エンヘドゥアンナは女神イナンナへの讃歌を残し、名前の分かる作者として最も古い一人に数えられる。

言葉の面でも転機になった。それまでの記録はシュメール語で書かれていたが、サルゴンの王朝はセム系のアッカド語を楔形文字で書き、行政の言葉にした。アッカド語は後のバビロニア語とアッシリア語の元になり、千年以上のちには国と国の外交の共通語になる。エジプトのアマルナで見つかった前14世紀の外交文書も、アッカド語で書かれている。
サルゴンの国は、孫のナラム・シンの代に最も広がった。ナラム・シンは「四方世界の王」と名乗り、自分の名に神の印をつけた。だが帝国は各地の反乱に悩まされ、前22世紀にはザグロス山地から来たグティ人の侵入もあって崩れた。その後、ウルの王が南部をまとめ直し(ウル・ナンム法典)、さらに数百年後にバビロンの王が広い国を作る(ハンムラビ法典)。複数の都市を一人の王の下に置くという形は、サルゴン以後、メソポタミアの王たちの手本になった。前8世紀のアッシリアの王が、わざわざ同じ名を名乗っている(サルゴン2世)。

サルゴンには、生まれをめぐる伝説がある。母は女神官で、ひそかに産んだ子を葦の籠に入れて川に流した。水汲みの男に拾われて庭師として育ち、女神イシュタルに愛されて王になった、という話である。モーセが籠に入れてナイルに流された話とよく似ている。ただし、この伝説を記した粘土板は前7世紀ごろのアッシリアの写本で、サルゴン本人の時代のものではない。人物はモーセより古いが、話がいつ形になったかは別の問題で、どちらがどちらに影響したかについては説が分かれている。