サルゴン
概要
複数の都市国家を一人の支配下に置いた。記録に残る最初の「帝国」とされる。出自の伝説は聖書のモーセの話に似ている。
関わったできごと(1)
アッカドのサルゴンBC2334年頃 · 当人本文
名はアッカド語でシャル・キン、「正統な王」を意味するとされる。生まれながらの王がわざわざ名乗る名ではない。実際、サルゴンは王家の出ではなかった。

出自については伝説が残っている。母は女神官で、父は知らない。母はひそかに子を産み、葦の籠に入れて瀝青で口をふさぎ、川に流した。川の水を汲む男アッキが拾い上げて育て、庭師にした。やがて女神イシュタルに愛され、王になった、という筋である。聖書のモーセの話とよく似ているが、こちらのほうが古い。ただしこの「サルゴン伝説」を伝える粘土板は、本人より1500年ほど後の新アッシリア時代の写しで、史実というより王の権威を飾る物語として読まれている。
史料から確かめられる出発点は、シュメール北部の都市キシュである。シュメール王名表は、サルゴンがキシュの王ウル・ザババの献酌官(酒を注ぐ側近)だったと記す。どういう経緯で主君に代わったのかは分からない。やがて自らの都アッカドを築き、そこを拠点に南へ向かった。

当時のメソポタミア南部は、ウル、ウルク、ラガシュといった都市国家が水と耕地をめぐって争う世界だった(ウルク。都市というものの始まり)。そのなかで、ウルクの王ルガルザゲシが南部の諸都市をまとめつつあった。サルゴンはこのルガルザゲシを破り、首枷をはめて聖都ニップルのエンリル神殿の門へ引き出した、と自らの碑文に刻ませている。続いてウル、ラガシュを落とし、ペルシア湾で武器を海に洗った、とも書く。
碑文によれば、サルゴンは34回の戦いに勝ち、「下の海から上の海まで」、つまりペルシア湾から地中海までを支配した。西はシリアのマリやエブラ、東はイランのエラムにまで兵を出したとされる。どこまでが恒常的な支配で、どこまでが一度きりの遠征だったかは、研究者の間でも見方が分かれる。それでも、言葉も神も違う複数の都市国家を一人の王の下に置き、各都市に自分の家臣を総督として送り込んだことは確かで、これが記録に残る最初の「帝国」とされる理由である(アッカドのサルゴン)。

統治の仕組みも新しかった。碑文には、毎日5400人の兵が王の前で食事をしたとある。都市の兵ではなく、王に直属する常備の軍がいたことになる。度量衡をそろえ、アッカド語を行政の言葉として広めた。アッカド語はセム系の言葉で、シュメール語とはまったく系統が違うが、同じ楔形文字で書かれた。この言葉はのちにバビロニアやアッシリアにも受け継がれ、古代オリエントの共通語になっていく。
交易も帝国を支えた。サルゴンの碑文は、メルッハ(インダス流域とされる)、マガン(オマーン方面)、ディルムン(バーレーン方面)の船がアッカドの岸壁に繋がれた、と誇っている。遠い土地の産物が都に集まることが、王の力の証だった。
宗教の押さえ方にも工夫がある。娘のエンヘドゥアンナを、南部の古い都市ウルで月神ナンナに仕える最高位の神官に据えた。征服者の娘が、征服された側の最も由緒ある神殿の頂点に立つ。政治と信仰を家族で結びつける手だった。エンヘドゥアンナは神々への讃歌を書き、作品の中に自分の名を記している。名前の分かる著者としては、人類最古とされる。
シュメール王名表は、サルゴンの治世を56年とする。晩年には各地で反乱が起きたと後代の年代記は伝えるが、どこまで信用できるかは分からない。息子のリムシュとマニシュトゥシュが位を継ぎ、孫のナラム・シンの代に帝国は最大になった。ナラム・シンは自らを神として扱わせた最初の王とされる。だがその後、帝国はほころび、ザグロス山地から来たグティ人の侵入などで、成立から150年ほどで崩れた。
帝国は消えたが、サルゴンの名は残った。後のメソポタミアの王たちは彼を理想の征服者として語り、その事績は伝説や物語として書き写され続けた。紀元前8世紀のアッシリア王が「サルゴン」を名乗ったのも、その記憶にあやかってのことである(サルゴン2世)。数百年後にハンムラビがバビロンから南北を統一したとき、手本になったのもこの最初の統一だった。
それほど語り継がれながら、サルゴンが築いた都アッカドは、いまも場所が特定されていない。バグダード周辺のどこかだと考えられているが、遺跡は見つかっていない。最初の帝国の都は、まだ地面の下に眠っている。
年代にも幅がある。在位を紀元前2334年頃からとするのは、よく使われる「中年代」に基づく計算で、ほかの数え方では数十年遅くなる。メソポタミアの古い年代は、どの天文記録を基準にするかで動くためである。