サッダーム・フセイン
概要
1979年から2003年までイラクの大統領を務めた独裁者。イラン・イラク戦争と湾岸戦争を起こし、イラク戦争で倒された。
本文
サッダーム・フセインは、1979年から2003年までイラクの大統領を務めた独裁者である。バアス党の力で権力を握り、秘密警察と粛清で国を支配した。イラン・イラク戦争と湾岸戦争という二つの大きな戦争を起こし、最後はイラク戦争で政権を追われ、イラクの法廷で死刑を言い渡されて処刑された。
1937年4月28日、ティクリート近郊のアウジャ村の貧しい家に生まれた。父は生まれる前に亡くなったとされ、母方のおじのもとで育った。おじはイギリスに反発する民族主義者で、サッダームはその影響を受けて育った。若くしてアラブの統一と社会主義を掲げるバアス党に入り、1959年には当時の首相カーシムの暗殺未遂に加わって傷を負い、シリアを経てエジプトへ逃れた。カイロではガマール・アブドゥル=ナセルのアラブ民族主義が最も輝いていた時代を過ごしている。
1963年の政変で帰国したが、党が政権を失うと投獄も経験した。1968年7月、バアス党が再び政権を奪うと、親類のアフマド・ハサン・バクル大統領のもとで副大統領格となり、治安機関を握って実権を広げた。1972年には石油会社を国有化し、石油危機で高騰した収入で道路や学校、病院を整え、識字率を上げる運動も進めた。一方で反対する者は容赦なく排除した。
1979年7月、サッダームはバクルを退かせて大統領になった。直後に党の幹部を集めた会議で、陰謀に加わったとされる者の名を一人ずつ読み上げて会場から連れ出させ、その多くを処刑した。この様子は撮影されて党内に配られ、恐怖による支配の始まりを告げた。同じ年、隣国ではイラン革命が起きていた。
1980年9月、サッダームはイランの混乱を好機とみて国境を越えて攻め込んだ。短期で終わるはずの戦争は8年に及び、両国で数十万から100万人ともいわれる死者を出した。革命の広がりを恐れたアラブ諸国や欧米、ソ連はイラクを支えた。戦争の終わりに近い1988年、イラク軍は北部のクルド人に対するアンファール作戦を進め、3月にはハラブジャの町に化学兵器を使って数千人の住民を殺した。
戦争で巨額の借金を抱えたイラクは、1990年8月2日にクウェートへ侵攻し、併合を宣言した。国連は撤退を求め、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領のアメリカを中心とする多国籍軍が1991年1月に攻撃を始めて、イラク軍はクウェートから追い出された。それでもサッダームは政権を保ち、南部のシーア派や北部のクルド人の蜂起を力で抑え込んだ。その後のイラクは長く経済制裁の下に置かれ、国民の暮らしは苦しくなった。
1990年代のサッダームは、国中に自分の肖像画や像を掲げさせ、各地に豪華な宮殿を次々に建てた。制裁の下で子どもの栄養失調や医薬品の不足が深刻になり、1996年からは石油を売って食料や薬を買う国連の計画が始まったが、その収入の一部は政権にも流れた。長男のウダイと次男のクサイは治安機関や軍の精鋭部隊を握り、とりわけウダイの暴虐ぶりは国民に恐れられた。二人は2003年7月、北部のモスルで米軍との銃撃戦の末に殺されている。
9・11同時多発テロの後、アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権は、イラクが大量破壊兵器を隠し持ち、テロ組織とつながっていると主張した。2003年3月、アメリカとイギリスを中心とする軍がイラクに攻め込み、4月にバグダードが陥落して政権は崩れた。大量破壊兵器は結局見つからなかった。逃れていたサッダームは同年12月13日、故郷ティクリートの近くの農家の地下の穴に隠れているところを米軍に見つかり、捕らえられた。

サッダームはイラク高等法廷で裁かれ、1982年に自分の暗殺未遂があったドゥジャイルの村で148人のシーア派住民を殺させた罪で、2006年11月に死刑判決を受けた。同年12月30日、バグダードで絞首刑が執行された。69歳だった。処刑の様子は携帯電話で撮られて広まり、宗派の対立をさらに深めた。サッダームの死後、イラクは内戦状態に近い混乱に陥り、のちには過激派組織の台頭も許すことになった。