大友宗麟
概要
豊後の戦国大名。南蛮貿易で栄えて九州北部を従え、洗礼を受けたが、耳川で島津に大敗した。
本文
大友宗麟は、豊後(いまの大分県)を本拠とした戦国大名で、大友氏の21代当主である。名は義鎮といい、宗麟は出家してからの号である。最も盛んなころには九州の6か国に力を及ぼし、キリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名として知られる。宣教師の記録では「豊後の王」と呼ばれた。
享禄3年(1530年)、20代当主大友義鑑の嫡男として豊後の府内に生まれた。誕生日は1月3日とも5月4日とも言われる。天文19年(1550年)、父の義鑑は側室の子塩市丸に家督を譲ろうとして、義鎮派の家臣を除こうとした。これを察した家臣たちが逆に館を襲い、塩市丸とその母を殺した。義鑑も傷を負って2日後に死に、遺言によって義鎮が家督を継いだ。この事件は二階崩れの変と呼ばれる。
翌天文20年(1551年)、周防の大内義隆が家臣の陶隆房の謀反で自害すると、宗麟は隆房の申し出を受けて、弟の晴英を大内氏の新しい当主として送り込んだ。これが大内義長である。これで室町時代を通じて争ってきた大内氏との対立が終わり、博多の支配にも手が届いた。同じ年、宗麟はフランシスコ・ザビエルを豊後に迎えて会っている(ザビエルの来日)。これが宗麟とキリスト教との出会いだった。
弘治3年(1557年)、弟の義長は毛利元就に攻められて自害し、大内氏は滅んだ。宗麟は北九州に進んできた毛利氏と争う。永禄2年(1559年)には将軍足利義輝への多額の献金によって豊前・筑前の守護に任じられ、さらに九州探題となった。その一方で門司城の戦いでは毛利に敗れ、永禄5年(1562年)に出家して宗麟と号した。永禄12年(1569年)には大内氏の一族を水軍とともに周防に上陸させて毛利の背後を脅かし、元就を九州から退かせた。
宗麟の力の源は海の向こうとの交易だった。明に船を送り、ポルトガル船を府内に迎え、カンボジアの国王とも使いをやり取りした。臼杵の丹生島には、三方を海に囲まれた城を築いた。宣教師を保護し、弘治3年には府内でポルトガル人のルイス・デ・アルメイダが日本で初めての西洋式の外科手術を行った。一方で宗麟は禅にも深く帰依し、狩野永徳を豊後に呼んで障壁画を描かせ、蹴鞠や茶の湯にも通じていた。名物の茶道具を買い集めすぎて、息子の義統から控えるよう書状で諫められている。
元亀2年(1571年)頃に家督を長男の義統に譲った後も、宗麟は実権を握り続けた。天正6年(1578年)7月、宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受け、ドン・フランシスコと名乗った。以後、手紙に「府蘭」と署名している。宗麟の関心は信仰そのものよりも、ポルトガル国王との外交や交易がもたらす実利にあったとする見方も強い。このころ、キリスト教を激しく嫌った正室とは離縁している。
同じ天正6年、薩摩の島津義久に追われた日向の伊東義祐が豊後に逃れてくると、宗麟は大軍を日向に送った。しかし11月、日向の耳川(高城川)の一帯で島津軍に大敗し、多くの重臣を失った(耳川の戦い)。これを境に、筑後や肥前の国人が次々と大友から離れ、龍造寺隆信や島津氏に領土を削られていった。家中でも宗麟と義統の二頭政治の確執が深まった。
天正10年(1582年)、宗麟は大村純忠・有馬晴信とともに、少年たちをローマ教皇のもとへ送り出した(天正遣欧少年使節)。天正13年(1585年)に重臣の立花道雪が病死すると、島津氏は北上を強めた。追い詰められた宗麟は天正14年(1586年)、上方に上り、大坂城で豊臣秀吉に会った。大友氏が豊臣の傘下に入る代わりに、援軍を求めたのである。

天正15年(1587年)、秀吉の大軍が九州に渡り、島津氏を降伏させた。宗麟はその結末を見届けることなく、島津義久が降伏する直前の5月23日(6月28日)、豊後の津久見で病死した。数え58歳。死因はチフスとする説が有力である。秀吉は宗麟に日向を与えるつもりだったが、宗麟が辞退した、あるいはその前に死んだとされる。翌月、秀吉はバテレン追放令を出した。豊後は義統が継いだが、義統は朝鮮での戦いで失態を咎められて改易され、大名としての大友氏はそこで終わった。
宗麟の城下だった臼杵には、クチナシの実で黄色く炊いた飯に、白身魚や野菜、豆腐を煮込んだ「かやく」をかけて食べる黄飯(おうはん)という郷土料理がある。臼杵藩が倹約令を出したとき、小豆を使う赤飯の代わりに作らせたのが始まりとされるが、南蛮との交易を行った宗麟の時代にスペインのパエリアをまねたのではないか、という説もある。確かめようのない話だが、南蛮の文化が豊後の暮らしに入り込んでいたことを思わせる。