牟田口廉也
概要
日本陸軍の中将。盧溝橋事件の連隊長で、第15軍司令官としてインパール作戦を強行し、多くの将兵を死なせた。
所属
日本本文
牟田口廉也は1888年10月7日、佐賀に生まれた。生家の福地家は佐賀藩士の家柄で、小学生のころに母方の遠縁の牟田口家の養子となった。陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ進み、1910年に卒業、1917年には陸軍大学校を出た。成績は中ほどで、以後は参謀本部や陸軍省など陸軍の中央で長く勤める軍人官僚の道を歩んだ。
1930年代、彼は陸軍内の派閥争いに深く関わった。皇道派に近い立場にいたため、1936年の二・二六事件のあと、事件には関与していなかったものの、粛清人事の対象となって中国へ出された。北京の近くに駐屯する支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長となった彼のもとで、翌1937年7月7日、盧溝橋事件が起きる。夜間演習中の部隊が銃撃を受けたという報告を受け、連隊長として中国軍への攻撃を許したとされる。この衝突は日中戦争の全面戦争へ広がっていった。
太平洋戦争が始まると、彼は精鋭とされた第18師団の師団長としてマレー半島を攻め下り、1942年2月のシンガポール陥落に至る戦いでは自ら前線に出て負傷した。師団はその後ビルマへ転じ、イギリス軍をビルマから追い出した。この年の秋、ビルマからインド東部へ攻め込む案が出たときには、補給の準備が足りないとして反対している。後の彼の行動を思うと皮肉な話である。
1943年3月、彼はビルマ方面を受け持つ第15軍の司令官となった。そしてインド北東部の英軍の拠点インパールを攻め落とす作戦を強く唱え、慎重論を押し切って実現させた。インパール作戦である。1944年3月、3個師団がビルマ・インド国境の険しい山地を越えて進撃を始めた。補給の乏しさを補うため、牛や羊に荷を運ばせ、そのまま食料にするという「ジンギスカン作戦」も試みられたが、多くの家畜は川を渡れず、山道で倒れた。

作戦は3週間ほどでインパールを落とすことを前提にしていた。しかし英印軍は空から補給を受けて陣地を守り抜き、日本軍は雨季と飢えとマラリアに苦しんだ。牟田口は前進を命じ続け、思うように進まない第33師団長の柳田元三と第15師団長の山内正文を作戦の途中で更迭した。コヒマを攻めた第31師団長の佐藤幸徳は、補給が届かないことを理由に、命令を待たず師団を退かせた。日本陸軍で初めての師団長による抗命とされる。
作戦は7月にようやく中止された。退却する兵士たちは飢えと病に倒れ、その道は「白骨街道」と呼ばれた。参加した兵力は約9万人、死者は3万人前後とされるが、数には諸説がある。同じ時期にサイパンの戦いで敗れた東条英機も退陣した。牟田口は司令官を解かれていったん予備役となり、その後、陸軍予科士官学校の校長として呼び戻されて終戦を迎えた。
戦後の1945年12月、彼は戦犯の容疑で逮捕され、シンガポールへ送られたが、1948年3月に釈放されて帰国した。その後は東京の調布で目立たずに暮らし、敗軍の将として弁解しないと決めていたという。ところが1962年、インパールで戦った英軍の元参謀から、作戦にも勝機はあったとする見解が伝えられる。これを機に彼は作戦の正当性を訴えるようになり、資料を作って配った。葬儀の場でも冊子が配られたという話は広く知られるが、それを書いた作家の記述には裏付けが無いとする指摘もある。
1966年8月2日、牟田口は77歳で死んだ。補給を軽んじて無理な作戦を強い、多くの兵を死なせた司令官として、彼の名は日本陸軍の失敗の象徴として語られ続けている。一方で、作戦を認めた上の司令部や大本営の責任を問う声もあり、一人の将軍の性格だけでは説明しきれない組織の問題として、インパールはいまも論じられている。