アレクサンドル・スヴォーロフ
概要
18世紀ロシアの将軍・大元帥。露土戦争やイタリア遠征で一度も負けなかったとされ、数々の奇行でも知られる。
所属
ロシア帝国本文
アレクサンドル・スヴォーロフは1729年、モスクワの貴族の家に生まれた。父はピョートル1世に仕えた将軍である。体が弱く、父は当初、息子を軍人にするつもりはなかったが、少年は軍事史の本を読みふけり、自分で体を鍛えた。13歳で軍に籍を置き、七年戦争ではプロイセンとの戦いに加わって、1762年までに大佐となり連隊を率いた。
名を上げたのは、1768年に始まるポーランドの反ロシア勢力「バール連盟」との戦いだった。12日で500キロを踏破してワルシャワを押さえるなど、速さで敵の不意を突き、1772年にクラクフを落として連盟を降した。これが最初のポーランド分割につながる。この戦いでは、わずか822人の直属の兵で3000から4000の連盟軍を破ったこともある。続く露土戦争では、1774年のコズルドジの戦いで8000の兵で4万のオスマン軍を破った。同じ年、プガチョフの乱の鎮圧に送られ、捕らえられたプガチョフをモスクワへ護送している。

1787年からの第二次露土戦争でも勝ち続けた。1789年のルムニクの戦いでは、オーストリア軍と組んで大軍を破り、エカチェリーナ2世から「ルムニク伯」の称号を受けた。1790年12月には、難攻不落とされたドナウ河口のイズマイル要塞を強襲で落とした。このとき要塞の稜堡へ何度も攻めかかったのが、のちにナポレオンと戦うクトゥーゾフである。1794年にはポーランドのコシチュシュコの蜂起を鎮め、ワルシャワ対岸のプラガ地区を攻め落とした。女帝への報告は「万歳。ワルシャワ。スヴォーロフ」の3語だけで、女帝は「おめでとう。元帥。エカチェリーナ」と返したと伝えられる。
スヴォーロフは奇人としても有名だった。朝は誰より早く起きて冷水を浴び、野営地では自分で雄鶏の鳴きまねをして全軍を起こしたという話が残る。歯に衣着せぬ物言いで、上官のポチョムキンや皇帝とも衝突し、たびたび左遷された。イズマイルの功をポチョムキンが自分の手柄のように言いふらしたときには公然と非難し、その翌年、スウェーデン国境の守備に回されている。戦場では、1787年のキンブルン要塞の防衛戦や翌年からのオチャーコフ包囲で、自ら負傷しながら前線に立った。一方で、兵士と同じものを食べ、藁の上で眠る将軍として兵には慕われたと伝えられる。
1796年に即位したパーヴェル1世は、プロイセン式の軍制を押しつけ、それを公然とあざけったスヴォーロフを解任して田舎に引きこもらせた。ところがフランス革命のあとフランスと戦う同盟ができると、1799年、皇帝は彼を呼び戻してイタリアへ送った。スヴォーロフはオーストリア軍と組んで、カッサーノ、トレッビア、ノーヴィで続けてフランス軍を破り、北イタリアをほぼ取り戻した。パーヴェル1世はこの働きに「イタリア公」の称号で報いた。

その秋、スイスへ転じた軍は、味方の敗北と補給の遅れで敵中に孤立した。このとき70歳に近かったスヴォーロフは、雪のアルプスを越えて退くことを決め、サン・ゴタール峠や「悪魔の橋」で戦いながら山を抜け、フランス軍の追撃を振り切った。多くの兵を失ったが、軍は崩れなかった。この行軍はハンニバルのアルプス越え以来の偉業とたたえられ、彼はロシアで3人目にして最後の「大元帥」となった。
しかし1800年、凱旋した彼から、皇帝は突然すべての地位を取り上げた。スヴォーロフはその年の5月、サンクトペテルブルクで失意のうちに死んだ。墓には「ここにスヴォーロフ眠る」とだけ刻まれた。著書『勝利の科学』で、時間を命より尊いものとし、速さと銃剣突撃を説いた。「弾丸は嘘をつく。銃剣は正直だ」という言葉は、のちの軍事史家に白兵主義として批判もされたが、彼が育てたクトゥーゾフやバグラチオンは、ナポレオンのロシア遠征でロシア軍を率いることになる。