ニコラ・テスラ
概要
交流の送電方式を実用にし、エジソンの直流と争って勝った。無線送電の実験に資産を注ぎ込み、ホテルの一室で死んだ。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
電流戦争AD1888年 · 交流側本文
1856年7月、オーストリア帝国の軍政国境地帯にあるスミリャン村(いまのクロアチア)で、セルビア正教会の司祭の家に生まれた。父は息子も聖職に就かせるつもりだった。母は読み書きができなかったが、家の道具を自分で工夫して作る人で、テスラは後年、発明の才は母から受け継いだと書いている。

グラーツの工科学校で電気工学を学んだが、学位は取らずに去った。学生のころ、講義で見た直流発電機の火花を散らす整流子を見て、これを無くせないかと考えはじめたという。答えが浮かんだのは1882年、ブダペストの公園を散歩しながらゲーテの『ファウスト』を口ずさんでいたときだった、と自伝にある。向きを変える電流をいくつか組み合わせれば、磁界そのものを回転させられる。回転磁界という考え方で、交流で回る電動機の土台になった。
パリのエジソン系の会社で働いたあと、1884年にニューヨークへ渡り、トーマス・エジソンの工場に雇われた。在籍は1年に満たない。発電機の改良に成功すれば5万ドルを払うと言われ、やり遂げたら「アメリカ流の冗談だ」と返された、と本人は回想している。エジソン側の記録には無い話で、真偽は確かめられない。ただ、直流にこだわるエジソンと、交流の可能性を信じるテスラが、技術の上でかみ合わなかったことは確かである。

独立して作った会社からは出資者に追い出され、1886年の冬には溝掘りの日雇いで食いつないだ。翌年、別の出資者を得て研究所を開き、1888年に交流電動機の特許をまとめて取る。アメリカ電気工学会での講演が評判になり、実業家ジョージ・ウェスティングハウスがその特許を買い取った。
ここから電流戦争が本格化する。直流は電圧を変えにくく、発電所から1、2キロ先までしか送れない。交流は変圧器で電圧を上げて遠くへ送り、使う場所で下げられる。不利になったエジソン側は、交流の危険を宣伝した。エジソンの協力者ハロルド・ブラウンは、公開の場で犬や馬を交流で感電死させてみせ、1890年に初めて執行された電気椅子にもウェスティングハウス製の交流発電機が使われた。

決着をつけたのは大きな事業だった。1893年のシカゴ万国博覧会の照明をウェスティングハウスが交流で引き受け、ナイアガラの滝の発電所もテスラの多相交流方式を採用した。1896年、そこから約40キロ離れたバッファローへ電気が送られる。世界の送電はこの方式に倣い、いまの家庭の電気もその延長にある。会社の経営が苦しくなったとき、テスラが特許の使用料の契約を自ら破り捨てて会社を救った、という話も伝わるが、細部には誇張があるとされる。
その後のテスラは、送電の先を見ていた。高い電圧を作るテスラ・コイルを考案し、1899年にはコロラド州の高地に実験場を建てて人工の雷を起こした。電線を使わずに、地球そのものを通して電力と情報を世界中に送れると考えた。1901年、銀行家J・P・モルガンの出資を得て、ロングアイランドに高さ約57メートルのウォーデンクリフ塔の建設を始める。同じ年にグリエルモ・マルコーニが大西洋を越えて無線信号を送り(マルコーニの大西洋横断無線)、モルガンは追加の出資を断った。塔は未完のまま放置され、1917年に解体された。

人柄については、本人の言葉と周囲の証言が多く残る。頭の中で装置を組み立て、動かしてから図面にしたと語った。食器を拭く紙ナプキンの数を決めていた、3で割り切れる数にこだわった、といった几帳面さや潔癖さの逸話も多い。講演では派手な放電の実演で聴衆を沸かせ、新聞は彼を魔術師のように書いた。
晩年はホテルを転々とし、最後はホテル・ニューヨーカーの一室で暮らした。窓辺に来る鳩に餌をやり、一羽の白い鳩を特別に愛したと自ら語っている。宿代の支払いにも困り、ウェスティングハウスの会社がわずかな年金を出していた。1943年1月、86歳でその部屋で死んでいるのが見つかった。同じ年、合衆国最高裁はマルコーニの無線の特許の一部を無効とし、先行する仕事の一つとしてテスラの特許を認めている。

死後、彼の名は1960年に磁束密度の国際単位になった。生涯に取った特許は世界で300件近いとされる。数々の構想のうち実現しなかったものの多さと、実現した交流の送電の大きさが、そのままこの人の評価の振れ幅になっている。