できごと

天然氷の交易

The natural ice trade
AD1806年2月13日
重要度 4
大英帝国ルパート・ランドスペイン帝国デンマーク=ノルウェーアメリカ合衆国ヌエバ・エスパーニャ副王領ルイジアナアメリカ合衆国ケベックT'atsaot'ineスペインイギリスAcadian Peninsula (UK)AD1806年2月13日ボストン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1806年2月13日の版図を描いています(13勢力)。

概要

ボストンの若い商人フレデリック・チューダーは、冬の池の氷を熱帯に売ることを思いついた。周囲は正気を疑った。最初の積荷はカリブ海のマルティニークへ運ばれ、大半が溶け、大損を出した。彼は債務者監獄に入っている。それでも続け、鋸で切り出す道具、おがくずによる断熱、そして氷を保つ倉庫を整えた。1833年、カルカッタへの積荷が成功する。ニューイングランドの氷が、インド、キューバ、そしてイギリスへ運ばれた。氷が、遠くから買う商品になった。

場所

ボストン
42.36°N -71.06°E · アメリカ・マサチューセッツ州

関わった人(1)

フレデリック・チューダーAD1783年9月4日–AD1864年2月6日 · 始めた

本文

冬に池や川の氷を切り出し、夏まで蓄えておくことは、古くから各地で行われていた。日本でも古代から山かげの窪地に氷室を設けて氷を夏まで保ち、朝廷に献上していた。だがそれは、近くの冬の氷を近くの夏に使うことだった。冬の無い熱帯の国へ、海を越えて氷を売る。そんなことを本気で考えた者はいなかった。

1805年、ボストンの裕福な家に生まれた若い商人フレデリック・チューダーは、兄ウィリアムとの雑談の中で、西インド諸島の人々に氷を売ったらどうだろう、という話を聞いたと伝えられる。冗談だったとも言われるが、22歳のフレデリックは本気にした。彼は日記の表紙に、恐れず、ひるまず、失敗して倒れるまでやり抜く者は必ず成功する、という趣旨の言葉を書き付けている。

フレデリック・チューダーの肖像
フレデリック・チューダーの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

問題は山ほどあった。氷は溶ける。熱帯の人々は氷を見たことがなく、買う理由も使い道も知らない。氷を運ぶと言えば、船主は笑って断った。着いた先には、氷をしまっておく場所も無い。

1806年2月13日、チューダーは自分で買った船に約130トンの氷を積み、ボストンからカリブ海のフランス領マルティニークへ送り出した。地元の新聞は、これは冗談ではないと伝える短い記事を載せ、町の人々は正気を疑った。結果は散々だった。氷の多くは航海のあいだに溶け、残った氷も売れなかった。現地の人々は扱い方を知らず、買って持ち帰るうちに溶けてしまう。損は4000ドルほどにのぼったとされる。

それでも彼はやめなかった。キューバやジャマイカへ氷を送り、損を重ねた。借金が返せず、債務者の監獄に入れられたこともある。当時は借金を返せないと投獄された時代で、債権者から身を隠して暮らした時期もあった。

そのあいだに、チューダーは一つずつ問題を解いていった。まず、溶けないように包む方法である。初めは藁や干し草を使ったが、やがて製材所で捨てられていたおがくずにたどり着いた。ただ同然で手に入り、細かな空気を閉じ込めて、藁よりはるかによく熱を防ぐ。船倉の壁を二重にして間におがくずを詰めると、溶ける量は大きく減った。

次に、着いた先に氷を蓄える倉を建てた。ハバナ、チャールストン、サヴァナ、ニューオーリンズ。厚い壁で囲い、屋根の下に隙間を設けて熱い空気を逃がす。これで、着いてから売り切るまで氷が持つようになった。

そして何より、氷を欲しがる人々を自分で作り出した。彼は喫茶店や酒場に、はじめは氷をただで配り、冷たい飲み物を客に出させた。客が冷たさに慣れると、翌年からは代金を取った。医者には、熱病の患者を氷で冷やすよう勧めた。アイスクリームの作り方も教えて回った。一度冷たい飲み物を覚えた者は、もうぬるいものには戻れない。彼はそう考えていた。

1820年代には、氷を切り出す方法も変わった。チューダーの取引相手だったナサニエル・ワイエスが、馬に引かせて池の氷の表面に格子の溝を刻む道具を工夫したのである。溝に沿って割れば、同じ大きさの四角い塊が大量に取れる。大きさがそろっていれば、積んだときに隙間ができにくく、隙間が少ないほど溶けにくい。それまで鋸で一つずつ手で切っていた手間と費用は、大きく下がった。

1833年5月、チューダーは思い切った賭けに出た。約180トンの氷を積んだ船を、ボストンから喜望峰を回ってインドのカルカッタへ送ったのである。航海はおよそ4か月、距離は2万キロを優に超える。9月にカルカッタに着いたとき、氷はまだ100トンほど残っていた。暑さに苦しむインドのイギリス人たちは熱狂した。新聞が書き立て、寄付を集めて氷の倉が建てられ、輸入の税も免じられた。この成功で、チューダーの商売は軌道に乗る。

19世紀の半ばには、ニューイングランドから毎年十数万トンの氷が船で運び出されるようになった。行き先はインド、キューバと西インド諸島、南米、中国、オーストラリア、そしてイギリスである。思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、1840年代にウォールデン池のほとりで暮らしたとき、目の前の池で働く人々が氷を切り出していくのを見て、この氷はインドの人々の喉を潤しに行くのだ、と『ウォールデン』に書いている。ロンドンでは、マサチューセッツのウェナム湖の氷が、澄んでいて味が無いと評判になった。その名があまりに売れたので、ノルウェーのある湖が「ウェナム湖」と名を変え、そこで取れた氷が同じ名で売られたという話まである。

アメリカの国内でも、氷は暮らしの一部になった。荷馬車に氷を積んだ配達人が家々を回り、台所には上の段に氷を入れて食べ物を冷やす木の箱が置かれた。英語で冷蔵庫を指す言葉は、もともとこの氷の箱のことだった。肉や魚、牛乳を冷やして遠くまで運ぶことも、氷によって始まった。

だが、この商売は永遠には続かなかった。1859年、フランスのカレが機械で氷を作る装置を作り(製氷機)、1870年代から機械の氷が安くなり始める。1890年の冬は暖かく、ニューイングランドの池が十分に凍らなかった。天然の氷が足りなくなった隙に、機械の氷が市場を奪った。衛生も問題になった。天然の氷は池の水が凍ったものである。都市の周りの池が汚れるにつれ、汚れた氷が病を広めたという報告が相次いだ。20世紀の初めには天然氷の交易はほとんど姿を消し、氷は工場で作るものになった。やがて氷の時代の後に、冷蔵船や家庭の電気冷蔵庫が続いていく。

チューダーは1864年、80歳で亡くなった。「氷王」と呼ばれ、莫大な財産を残した。もっとも、彼はコーヒーの投機などで何度も大損をしており、当たったのは氷だけだったとも言われる。冬の池の氷という、ただで手に入り、誰も売り物だと思わなかったものに値段をつけ、地球の反対側まで運んで売る。他人が見向きもしないところに富がある、と日記に書いた男は、冷たさそのものを遠くから買う商品に変えたのである。

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