フレデリック・チューダー
概要
ボストンの法律家の子。ハーヴァードへ進まず商売に入った。1805年、兄との雑談から、冬の氷を熱帯へ運ぶ事業を思いつく。最初の航海で大損し、以後も失敗を重ね、二度、債務者監獄に入った。断熱に鋸屑を使うこと、現地に氷倉を建てること、そして冷たい飲み物の習慣そのものを作ることを、順に解いていった。1833年のカルカッタ航海で軌道に乗り、氷王と呼ばれた。晩年は資産家として死んだ。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
天然氷の交易AD1806年2月13日 · 始めた本文
フレデリック・チューダーは1783年9月4日、ボストンに生まれた。父ウィリアムは法律家で、のちの大統領ジョン・アダムズのもとで法律を学び、独立戦争では大陸軍の法務の長を務めた名士だった。兄弟たちはハーヴァード大学に進んだが、フレデリックは13歳で学校をやめ、商店の見習いになった。机に向かう勉強より、商売の駆け引きに惹かれる少年だった。

1805年、21歳の彼は、兄ウィリアムとの雑談から一つの考えを得たと伝えられる。カリブ海の島々の人々は暑さに参っている。ニューイングランドの池で冬に張る氷を切り出して、あちらへ運んだらどうか。冗談のような話を、フレデリックは本気にした。冬の北国では氷はいくらでも手に入り、誰も値打ちを認めていない。それを、氷を見たこともない土地に運べば売れるはずだ、と。彼はこの事業のための日誌を作り、その表紙に、最初の失敗であきらめる者は世に何も残せない、という意味の決意を書きつけた。
最初の航海は1806年、カリブ海のフランス領マルティニークだった。氷は着いたが、それを蓄えておく場所がなく、買う人もいなかった。島の人々は氷の使い道を知らなかったのである。氷は港で解け、彼は大損をした。その後もキューバやジャマイカへの航海で損を重ね、1812年にイギリスとの戦争が始まると、海の交易そのものが止まった。借金はふくらみ、彼は債務者監獄に入れられ、保安官から身を隠して暮らした時期もある。
それでも彼はやめなかった。失敗の一つひとつから、解くべき問題を取り出していった。一つ目は、どうやって氷を解かさずに運ぶか。いろいろな詰め物を試した末、製材所で捨てられていたおがくずが安くてよく効くと分かった。船倉に氷を積み、すき間をおがくずで埋める。二つ目は、着いた港でどう蓄えるか。彼は売り先の港に、厚い壁で囲った氷の倉を自分で建てた。三つ目は、そもそも氷を欲しがる人がいないことだった。彼は酒場の主人に氷を安く、ときにはただで配り、冷たい飲み物を出させた。一度冷えた飲み物に慣れた客は、もうぬるい飲み物には戻れない、と彼は見抜いていた。冷たい飲み物を楽しむ習慣そのものを、彼は作り出したのである。
1820年代には、仲間のナサニエル・ワイエスが、馬に引かせて池の氷に格子状の溝を刻む道具を考え出した。これで氷を同じ大きさの四角い塊に、速く安く切り出せるようになり、積み込みも貯蔵もはかどった。チューダーの事業はようやく利益を出し始め、キューバのハバナや、アメリカ南部のチャールストン、ニューオーリンズへと販路が広がった(天然氷の交易)。
最大の賭けは1833年だった。彼は船に180トンの氷を積み、地球を半周してインドのカルカッタへ送り出した。4か月あまりの航海のあと、100トンほどが解けずに残っていた。赤道を2度越えてボストンの氷が届いたことに、カルカッタのイギリス人社会は熱狂した。人々は寄付を集めて氷の倉を建て、植民地の政府は関税を免除した。インドは彼の最大の市場の一つになった。
チューダーは「氷の王」と呼ばれるようになった。19世紀半ばには、彼とあとに続いた業者たちによって、毎年十数万トンもの氷がボストンから送り出された。行き先は西インド諸島、南米、インド、中国、オーストラリアにまで及んだ。氷を下ろした船は空のまま帰らず、熱帯の果物や砂糖を積んで戻った。
ボストン近郊のコンコードにあるウォールデン池でも、1846年から翌年にかけての冬、チューダーのために氷が切り出された。池のほとりで暮らしていた思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、その様子を『ウォールデン』に書いている。百人ものアイルランド人の労働者が北部の監督に率いられて毎日やってきて、池の氷を運び去っていった。そしてこの氷を、遠いチャールストンやマドラスやカルカッタの汗だくの人々が飲むのだと思いめぐらせ、ウォールデンの清らかな水がガンジス川の聖なる水と混じり合う、と書いた。同じ本でソローは、朝、池のほとりでインドの聖典を読むとも書いている。東から思想が来て、西から氷が行く。19世紀の世界の結びつきが、一つの池の上に重なっていた。
チューダーは氷のほかにも、コーヒーの投機などさまざまな事業に手を出し、そこで大きな損も出したが、その穴を氷の利益で埋めた。1864年2月6日、80歳で死んだとき、彼は大きな財産を残していた。
天然の氷の交易は、その後、機械で氷を作る技術(製氷機)や、冷やしたまま食べ物を運ぶ船(冷蔵船)に取って代わられていった。それでも、冷たさを売り物にし、冷たいものを欲しがる暮らしを生み出したのはチューダーだった。誰も値打ちを認めなかった冬の池の氷が、世界をめぐる商品になったのである。