ラトコ・ムラディッチ
概要
ボスニアの村。父はウスタシャに殺された。ユーゴ人民軍の将校から、1992年、ボスニアのセルビア人勢力の軍司令官に。サラエヴォの包囲(1425日、市民1万1000人が死んだ)とスレブレニツァ。16年、逃亡した(親族の家の壁の裏に隠れていた)。2011年、セルビア北部の村で逮捕。2017年、旧ユーゴ国際刑事裁判所がジェノサイドと人道に対する罪で終身刑。判決を読み上げる法廷で、彼は叫んで退廷させられた。
関わったできごと(1)
スレブレニツァの虐殺AD1995年7月11日 · 命じた本文
ラトコ・ムラディッチは、1942年3月12日、ボスニアの南東部、カリノヴィクに近い村ボジャノヴィチで生まれた。第二次世界大戦のさなかで、ユーゴスラヴィアは枢軸国に占領され、クロアチアの民族主義の組織ウスタシャがセルビア人を迫害していた。共産党のパルチザンに加わっていた父は、彼が2歳のとき、ウスタシャとの戦いで死んだ。母が子どもたちを育てた。

戦後のユーゴスラヴィアでは、チトーのもとで、民族どうしの「兄弟愛と統一」が掲げられた。ムラディッチは15歳でサラエヴォの工業学校に入り、そこからベオグラードの陸軍士官学校に進んで、ユーゴスラヴィア人民軍の将校になった。共産主義者同盟の党員でもあった。有能で、部下の面倒見がよい将校として評価され、順調に昇進した。
1991年、ユーゴスラヴィアは崩れ始めた。クロアチアが独立を宣言すると、クロアチア国内のセルビア人の住む地域で戦いが起き、ムラディッチは、その中心のクニンに送られて、セルビア人の勢力とともに戦った。1992年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言すると、ボスニアのセルビア人は、政治家カラジッチのもとで自分たちの共和国を作り、ボスニアの政府と戦い始めた(ボスニア紛争)。5月、50歳のムラディッチは、そのスルプスカ共和国の軍の司令官になった。人民軍の兵器と兵士の多くが、その軍に引き継がれた。

首都サラエヴォは、1992年4月から1996年2月まで、1425日にわたって包囲された(サラエヴォ包囲)。近代の戦争で最も長い都市の包囲の一つである。ムラディッチの軍は、町を見下ろす丘に砲と狙撃兵を置き、市民を撃った。水を汲む列、葬列、路面電車が狙われた。1994年2月には市場への砲撃で68人が、1995年8月には同じ市場の近くで43人が死んだ。包囲の間に、市民と兵士を合わせて1万人を超える人が死んだ。傍受された無線の記録には、町の住民を眠らせず、正気を失わせるまで撃てと命じる彼の声が残っているとされる。
1995年7月11日、ムラディッチの軍は、国連が「安全地帯」としていたボスニア東部の町スレブレニツァに入った。彼はテレビのカメラの前で、この町をセルビアの民に贈る、ついにトルコ人に復讐するときが来た、と語った。オスマン帝国の支配への反乱を引き合いに出し、ボスニアのムスリムを「トルコ人」と呼んだのである。国連の基地のあるポトチャリでは、子どもたちに菓子を配り、誰も傷つけないと語る姿が撮影された。その後の数日で、ムスリムの男性と少年8000人以上が連れ去られて殺され、遺体は穴に埋められ、のちに掘り返されて別の場所に埋め直された(スレブレニツァの虐殺)。オランダの国連部隊は、虐殺を止められなかった。
1995年7月、旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所は、ムラディッチをカラジッチとともに起訴し、11月にはスレブレニツァについて追加の起訴をした。同じ11月、デイトン合意で戦争は終わった。だが彼は捕まらなかった。戦後しばらくは、ベオグラードで半ば公然と暮らし、レストランやサッカーの試合に姿を見せた。セルビアの指導者ミロシェヴィッチが2000年に失脚し、翌年に裁判所に引き渡されると、ムラディッチは姿を消した。軍の一部や支持者が、逃亡を助けたとされる。
2011年5月26日、セルビア北部のラザレヴォ村の親族の家で、ムラディッチは逮捕された。69歳で、脳卒中の後遺症で片腕が不自由だった。セルビアは、ヨーロッパ連合への加盟を進めるため、彼の身柄を引き渡す必要に迫られていた。数日後、彼はオランダのハーグに移された。
裁判は2012年に始まった。2017年11月22日、裁判所は、スレブレニツァでのジェノサイド、サラエヴォの包囲での市民へのテロ、人道に対する罪と戦争法規の違反など、11の訴因のうち10で彼を有罪とし、終身刑を言い渡した。ボスニア東部のほかの自治体でのジェノサイドの訴因だけは、有罪とされなかった。判決の朗読の途中、彼は立ち上がって、すべて嘘だと叫び、法廷から退かされた。傍聴席には、スレブレニツァで夫や息子を失った女性たちがいた。2021年6月、上訴審は判決を支持し、刑は確定した。
1994年、医学生だった娘のアナは、23歳で、父の拳銃で命を絶った。父の戦争の行いを知って苦しんだためだと言われるが、ムラディッチは、娘は殺されたのだと主張し続けたという。いまもセルビアとスルプスカ共和国の一部では、彼を英雄とする壁画が描かれている。同じボスニアの東部には、スレブレニツァの犠牲者の墓標が並ぶ記念墓地がある。