概要
ニューヨーク州の貧しい家。12歳で家を出て、機械工と、そして旅回りの役者として暮らした。生涯、俳優になりたがっていた。1850年、ボストンで壊れたミシンの修理を頼まれ、11日で実用的な改良型を作った。特許争いを弁護士クラークとの提携で乗り切り、月賦販売と、女性を使った実演販売で市場を作った。私生活は放埒で、複数の家庭に24人の子がいた。醜聞を避けてヨーロッパへ移り、イギリスのデヴォンで死んだ。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
ミシンと分割払いAD1851年 · 売った本文
1811年10月27日、ニューヨーク州ピッツタウン。
父アダム・ジンガー(ドイツ移民。後に Singer に綴りを変えた)は、粉挽きと大工。8人兄弟の末子。
10歳のとき、母が家を出た(あるいは、両親が離婚した)。
**12歳で、家を出た**。
**放浪**。
彼は、機械工として働いた。旋盤、印刷機、そして木工。
同時に——**役者**をしていた。
19歳のとき、彼は「メリット・プレイヤーズ」という一座を作り、自分で座長を務めて、各地を回った。シェイクスピア(『リチャード3世』を好んだ)。
**彼が本当になりたかったのは、俳優である**。生涯、そうだった。
(後に富を得てから、彼はニューヨークに劇場を建てようとした。そして、ヨーロッパで、自分専用の巨大な馬車〈「シンガーの奇妙な馬車」と呼ばれた〉で移動した。派手なものが好きだった。)
**発明**。
彼は、いくつかの機械を発明し、特許を取った。
- 1839年、**岩を掘る機械**(運河の工事用)。特許を2000ドルで売った。その金で、また一座を作って、使い果たした。 - 1849年、**木と金属を彫る機械**。ニューヨークで工場を作った。ボイラーが爆発して、事業が潰れた。
1850年、ボストン。
彼は、オーソン・フェルプスという人物の工場で、この彫刻機を売り込んでいた。
その工場は、**レロウ&ブランチャード社のミシン**を製造していた。
そして、その機械は、**しょっちゅう壊れた**。
**11日**。
フェルプスが、シンガーに、この機械を直せないかと持ちかけた。
シンガーは、機械を見て、こう言ったと伝えられる。「**この糸巻きと、この針の動きが間違っている**」。
そして、40ドルを借りて、**11日間**で、改良型を作り上げた。
**彼の改良**。
- 針が**垂直に上下する**。 - 生地を**平らな台**の上に置く。 - **押さえ金**で生地を押さえる(それまでは、手で押さえるか、串に刺していた)。 - 送り歯で、生地を一定量ずつ送る。 - **足踏みペダル**で駆動する(手回しでは、片手がふさがる)。 - 縫い目の途中で止めて、生地の向きを変えられる。**曲線が縫える**。
つまり、**実際に、日常の裁縫に使える**機械になった。
1851年8月12日、特許(アメリカ特許第8294号)。
**訴訟**。
1854年、**イライアス・ハウ**が訴えた。針の目を先端に開ける機構は、自分の特許(1846年)である。
シンガーの言葉として伝わるもの。
「**1万ドルなら、悪魔にでも払ってやる。だが、あの発明には1セントの価値もない**」。
**敗訴した**。
以後、シンガーはハウに、1台につき使用料を払った。
(ハウは、この特許料で富を得た。年間20万ドルに達した年もある。彼は南北戦争で、自費で連隊を組織し、自らは一兵卒として従軍した。)
**特許プール**。
1856年、4社が特許を持ち寄る「ミシン・コンビネーション」が成立した。
(提案したのはグローヴァー&ベイカー社のオーランド・ポッター。「訴訟に金を使うより、機械を作って売れ」。)
**エドワード・クラーク**。
シンガーの共同経営者。弁護士。
彼が、**事業を作った**。
シンガーは、機械の改良と、そして——遊興に忙しかった。
クラークの発案。
**(1)分割払い**。
ミシンは125ドル。労働者の年収の3分の1。
「頭金5ドル、月々3ドル」。
(法的な形式は、当初は賃貸だった。家賃を払い続け、総額に達したら所有権が移る。所有権留保付き割賦販売。)
これが、**アメリカにおける耐久消費財の割賦販売の、最初の大規模な成功例**である。
**(2)下取り**。競合他社の機械でも、古いミシンを引き取って値引きする。引き取った機械は、破壊した。
**(3)実演販売**。
店の前で、**女性の販売員**が、実際に縫ってみせる。
(当時、「女性には機械は扱えない」という通念があった。それを、目の前で崩す必要があった。)
**(4)分割払いを、教会と慈善団体にも**。牧師と教会には、半額で売った(口コミの効果を狙った)。
**(5)国際展開**。
1855年、パリ万博で金賞。1867年、グラスゴーに工場。1902年、ロシアのポドリスクに工場(帝政ロシア最大の外資系工場になった)。
ブラジル、インド、日本、そしてアフリカ。
**シンガーの広告**は、世界各地の民族衣装を着た女性が、ミシンを使う図柄で作られた。「文明の使者」としてのミシン、という自己像である。
**規模**。
- 1863年、シンガー製造会社を法人化。 - 1876年、年産26万台。 - 1890年代、世界の市場の**約80%**。 - 1900年代、**世界最大の多国籍企業**の一つ。
(1908年に完成したニューヨークの**シンガー・ビル**は、47階建て、当時世界一高いビルだった。1968年に取り壊された。それまで、平和裏に解体された世界一高い建物だった。)
**私生活**。
これが、彼を有名にしたもう一つの理由である。
彼は、同時期に、**複数の家庭を持っていた**。
- **キャサリン・ハリー**(1830年結婚)——2人の子 - **メアリー・アン・スポンスラー**——10人の子。彼女は「シンガー夫人」として振る舞っていた - **メアリー・イーストウッド・ウォルターズ**——1人の子 - **メアリー・マゴーワン**——5人の子 - **イザベラ・ユージェニー・ボワイエ**(1863年結婚)——6人の子
(名前がすべて Mary 系であるのは、偶然である。)
合わせて、**少なくとも18人、一説に24人の子**。
彼は、それぞれの家庭に、別の名前で住んでいた(「Merritt」「Mathews」などの偽名を使った)。
家族同士は、互いの存在を知らなかった。
**1860年8月**。
ニューヨーク五番街。メアリー・アン・スポンスラーが、馬車に乗ったシンガーを見た。
隣に、別の女性がいた。
彼女が問い詰め、事情が明るみに出た。
新聞が書き立てた。訴訟が起きた。取締役会は、彼に会社の表舞台から退くよう求めた。
**ヨーロッパ**。
1862年、彼はアメリカを離れた。パリ、そしてロンドン。
1863年、**イザベラ・ボワイエ**(フランス人。20歳以上年下)と結婚した。
(彼女がフレデリック・バルトルディの**自由の女神**のモデルの一人だった、という説が流布しているが、確証はない。)
1871年、イギリス南西部**デヴォン州トーキー**に、巨大な邸宅の建設を始めた。
「**ザ・ウィグワム**」(後の「オールドウェイ・マンション」)。
**115室**。ヴェルサイユのプチ・トリアノンを模した部分がある。円形の劇場を備えていた(**彼は、そこで演じるつもりだった**)。
完成を見ずに、1875年7月23日、死んだ。63歳。
**遺産**。
**1300万ドル**(現在の価値で数億ドル)。
遺言をめぐって、認知された子と、されなかった子の間で、訴訟が続いた。
**子どもたち**。
- **パリ・シンガー**(イザベラの子)——ダンサー**イサドラ・ダンカン**の恋人。二人の間に生まれた子パトリックは、3歳のとき、自動車ごとセーヌ川に落ちて死んだ。 - **ウィナレッタ・シンガー**(ポリニャック公妃)——パリで最も重要な音楽のパトロンの一人になった。**ストラヴィンスキー**(『狐』)、**サティ**(『ソクラテス』)、**ファリャ**(『ペドロ親方の人形芝居』)、**ラヴェル**、**プーランク**、**クルト・ヴァイル**に、作品を委嘱した。彼女のサロンで、プルーストが人々を観察していた。 - **モーティマー・シンガー**——飛行機の初期の支援者。
**残ったもの**。
シンガーが発明したのは、ミシンではない。彼は、既にあったものを、**使えるものにした**。
そして、彼と彼の共同経営者が作ったのは、**高価な機械を、普通の家庭に売る方法**である。
分割払い、下取り、実演、そして広告。
いま、我々が家電と車とスマートフォンを買う仕組みは、1856年に、ミシンを売るために作られた。