人物

アイザック・シンガー

Isaac Merritt Singer
AD1811年10月27日 – AD1875年7月23日(享年63)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

ニューヨーク州の貧しい家。12歳で家を出て、機械工と、そして旅回りの役者として暮らした。生涯、俳優になりたがっていた。1850年、ボストンで壊れたミシンの修理を頼まれ、11日で実用的な改良型を作った。特許争いを弁護士クラークとの提携で乗り切り、月賦販売と、女性を使った実演販売で市場を作った。私生活は放埒で、複数の家庭に24人の子がいた。醜聞を避けてヨーロッパへ移り、イギリスのデヴォンで死んだ。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

ミシンと分割払いAD1851年 · 売った

本文

アイザック・メリット・シンガーは1811年10月27日、ニューヨーク州の田舎町ピッツタウンに生まれた。父アダムはドイツ系の移民で、粉ひきと大工をしていた。アイザックは8人きょうだいの末っ子だった。10歳のころ両親が別れ、12歳で彼は家を出た。

アイザック・シンガーの肖像(エドワード・ハリソン・メイ画)
アイザック・シンガーの肖像(エドワード・ハリソン・メイ画)Wikimedia Commons Edward Harrison May · Public domain

それからの彼は、二つの顔を持って生きた。一つは機械工としての顔である。旋盤を回し、印刷機を扱い、木を加工して食いつないだ。もう一つは役者としての顔だった。彼が本当になりたかったのは俳優で、その思いは生涯消えなかった。旅回りの一座に加わってシェイクスピアを演じ、とりわけ『リチャード三世』を好んだ。

1839年、彼は運河の工事で岩を掘る機械を考えて特許を取り、2000ドルで売った。その金で自分の劇団を作り、「メリット・プレイヤーズ」と名乗って何年も各地を巡業したが、金はすっかり使い果たした。1849年には木や金属を彫る機械を作り、ニューヨークに工場を開いたが、ボイラーが爆発して事業はつぶれた。

トーキーの墓地にあるシンガーの墓
トーキーの墓地にあるシンガーの墓Wikimedia Commons Ianmacm at English Wikipedia · Public domain

1850年、彼はこの彫刻機を売り込むため、ボストンにあるオーソン・フェルプスの工場を訪れた。その工場では、ある会社のミシンを作っていたが、この機械はしょっちゅう壊れた。フェルプスは、これを直せないかとシンガーに持ちかけた。シンガーは機械をひと目見て、糸を回す部分と針の動き方がまずいと言ったと伝えられる。そして40ドルを借り、11日間で改良した機械を作り上げた。

彼の改良は、どれも使う人の立場に立ったものだった。針はまっすぐ上下に動く。生地は平らな台の上に置き、押さえ金で上から押さえ、送り歯で一定の幅ずつ送る。それまでの機械では、生地を手で押さえたり、串に刺したりしなければならなかった。動かすのは手回しではなく足踏みのペダルで、両手が自由に使える。縫う途中で止めて生地の向きを変えられるので、曲線も縫える。初めて、家庭でふだんの縫い物に使える機械になったのである。1851年8月、彼は特許を得た(ミシンと分割払い)。

すぐに争いが起きた。発明家イライアス・ハウが、針の先の方に糸を通す穴を開けた仕組みは自分の特許だと訴えたのである。シンガーは、1万ドルなら悪魔にでも払ってやるが、あの発明には1セントの値打ちもない、と言い放ったと伝えられる。だが裁判に負け、以後は機械1台ごとにハウに使用料を払うことになった。ハウはこの使用料で大金持ちになり、南北戦争では自分の金で連隊を作って、自らは一兵卒として従軍した。ミシンの会社どうしの訴えは果てしなく続き、1856年、主な会社が互いの特許を持ち寄って使い合う取り決めを結んだ。裁判に金を使うより、機械を作って売れ、というわけである。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

事業を本当に大きくしたのは、シンガーの共同経営者で弁護士のエドワード・クラークだった。シンガーは機械の改良と遊びに忙しかった。当時、ミシンは1台100ドルを超え、働く人の年収の何分の一にもなった。クラークは、頭金を少し払えば機械を家に持ち帰ることができ、残りを毎月少しずつ払う方法を考えた。形の上では、払い終えるまでは貸しておき、払い終えたら持ち主になる。高価な品物を分けて払って買う仕組みが、これほど大きな規模で成功したのは、アメリカで初めてだった。

ほかにも新しい売り方を次々に試した。店の窓辺では、女性の販売員が実際に縫ってみせた。女には機械は扱えない、という当時の思い込みを、客の目の前で崩すためである。古いミシンは他社のものでも引き取って値引きした。牧師の妻には安く売り、教会での評判を利用した。1855年のパリ万国博覧会で賞を取ると、海外にも打って出た。スコットランドのグラスゴーに大きな工場を建て、のちにはロシアにも工場を持った。広告には、世界各地の民族衣装をまとった女性たちがシンガーのミシンを踏む姿が描かれた。会社は世界のミシン市場の大半を握り、最も早く世界に広がった企業の一つになった。1908年にニューヨークに建てたシンガー・ビルは、短いあいだながら世界一高いビルだった。

シンガーの2番目の妻イザベラ・ユージェニー・ボイヤー
シンガーの2番目の妻イザベラ・ユージェニー・ボイヤーWikimedia Commons Public domain

もっとも、工場の作り方は意外に古かった。ほかの銃器工場のように部品をそろえて量産するのではなく、長いあいだ熟練工が一台ずつやすりで部品を合わせて仕上げていた。部品を本当に入れ替えられる大量生産に移ったのは、1880年代になってからである。シンガー社が抜きん出たのは、作り方より売り方の力だった。日本にも明治の終わりに支店が開かれ、月賦で売るやり方とともに、ミシンを踏む洋裁の文化が家庭に入っていった。

ミシンは世の中の働き方も変えた。服を手で縫えば何日もかかったものが、数時間でできるようになった。既製服の産業が生まれ、大都市には、移民の女性たちが狭い部屋でミシンを踏み続ける縫製の工場が並んだ。1911年にニューヨークで多くの若い女工が命を落としたトライアングル・シャツウエスト工場の火災も、そうした工場の一つだった。家庭の主婦を家事から解き放つ機械は、同時に、低い賃金で長い時間働く女性たちの仕事場の機械でもあった。

私生活は、事業とは別の意味で世間を驚かせた。彼は同じ時期にいくつもの家庭を持っていた。最初の妻キャサリンとのあいだに子が2人、長く夫人として振る舞っていたメアリー・アン・スポンスラーとのあいだに10人、ほかの女性たちとのあいだにも何人も。それぞれの家庭で、ミドルネームのメリットを姓にするなど別の名を名乗り、家族は互いの存在を知らなかった。子どもの数は少なくとも18人、一説に24人とされる。

1860年、ニューヨークの五番街で、馬車に乗ったシンガーの隣に別の女性がいるのを、メアリー・アンが見つけた。問い詰めたことからすべてが明るみに出た。新聞は書き立て、訴えが起き、会社の取締役たちは彼に表に出ないよう求めた。

富を得てからの彼は、派手なものを好んだ。ニューヨークでは、何頭もの馬に引かせ、何十人も乗れる巨大な馬車をあつらえて町を走らせ、人々の目を奪った。舞台に立てなかった役者は、町そのものを舞台にしたのかもしれない。

1862年、シンガーはアメリカを離れ、パリ、ついでロンドンに移った。1863年、ずっと若いフランス人女性イザベラ・ボワイエと結婚した。彼女が自由の女神像のモデルの一人だったという説が広まっているが、確かな証拠はない。1870年代、彼はイギリス南西部の保養地トーキーに、100を超える部屋と劇場を備えた巨大な屋敷を建て始めた。そこで自ら舞台に立つつもりだったのかもしれない。だが完成を見ることなく、1875年7月23日に死んだ。63歳だった。残した財産は1300万ドルにのぼり、認められた子と認められなかった子のあいだで、遺産をめぐる争いが長く続いた。

子どもたちの中には、のちの文化に名を残した者もいる。娘のウィナレッタはフランスの貴族に嫁いでポリニャック公妃となり、パリの音楽の大きな後ろ盾として、イーゴリ・ストラヴィンスキーやサティ、ファリャ、プーランクらに作品を頼んだ。息子のパリスは舞踊家イサドラ・ダンカンの恋人になった。

シンガーはミシンを発明したのではない。すでにあったものを、ふつうの人が使えるものにした。そして彼とクラークが作り上げたのは、高価な機械を、ふつうの家庭に売る方法だった。分けて払う、古いものを引き取る、目の前で使って見せる、世界に向けて広告する。私たちがいま家電や車やスマートフォンを買う仕組みの多くは、ミシンを売るために始まった。

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