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Person / 人

サミュエル・プリムソル

Samuel Plimsoll
AD1824年2月10日 – AD1898年6月3日(享年74)
イギリス重要度 3

概要

ブリストル生まれ。石炭商として失敗し、一時、宿無しになった。その経験から貧しい人々の側に立った。1868年、下院議員。船員の遺族の話を聞き、老朽船への過積みを追及した。1873年『船乗りたちの友』を自費で出版。議場で船主の議員を「人殺し」と呼び、議長の制止を無視して退場になった。世論が沸き、1876年の商船法が通った。「船乗りの友」と呼ばれた。

関わったできごと(1)

満載喫水線AD1876年 · たたかった

本文

1824年2月10日、ブリストル生まれ。父トマスは、教会の会計係と、監督官庁の役人を務めた。一家は敬虔な非国教徒(会衆派)。

**若い頃**。シェフィールドの醸造所で書記として働き、支配人になった。1853年、独立してロンドンで石炭商を始めた。

失敗した。取引先に裏切られ、破産した。

彼は下宿代を払えなくなり、一時、貧民街の安宿で暮らした。「私は、週7シリング6ペンスで暮らす人々の中にいた」。

後年、彼はこの時期を繰り返し語った。「私は、貧しい人々の中に、忍耐と、互いへの惜しみない親切を見た。……あの人々への共感は、私の中から決して消えない」。

石炭の商売を立て直し、1860年代には成功した商人になった。

**議員**。1868年、ダービー選出、自由党。

議会で彼が取り上げたのは、労働者の住宅、そして「囲い込みからの共有地の保護」だった。やがて、海に向かった。

**きっかけ**。船員の遺族たちが、彼のところへ来た。ジェームズ・ホールという船主兼改革者(サンダーランド)が、資料を提供した。

彼が見つけた事実。

- 老朽船を安く買い、修理せず、過積みして走らせる船主がいる。 - 船と積荷に、実価を超える保険が掛けられている。沈めば儲かる。 - 船員は、危険を理由に乗船を拒めば、**刑務所に入れられる**(1870〜72年で1628人)。 - 毎年、イギリス沿岸だけで数百人の船員が死ぬ。

**『我らの船員たち』**(1873年)。自費出版。ペーパーバックで安く売った。

彼は、船名と、船主の名と、死者の数を、実名で列挙した。過積みの写真を載せた。

反発は激しかった。名誉毀損で訴えられ、敗訴した。賠償金は、彼を支持する人々の募金で支払われた。

**1875年7月22日**。

政府は、商船法案をこの会期では取り下げる、と発表した。理由は、他の議事が詰まっている、というものだった。

プリムソルは立ち上がった。議場の中央、テーブルの前に進み出て、拳を振った。

「私は、この議場に議席を持つ**船殺しども**を、暴いてみせる」。

議長が着席を命じた。彼は従わなかった。「私は、彼らを暴くつもりだ」。

彼は退場を命じられた。翌週、謝罪した。

しかし、新聞は一面で報じた。街頭で彼の名が叫ばれた。労働者の集会が開かれた。世論は、圧倒的に彼の側についた。

政府は方針を転換し、その会期のうちに暫定法を通した。翌年、**1876年商船法**。

**満載喫水線**。船腹に、円と横線の印。この線より深く沈めてはならない。

**残った欠陥**。1876年法は、線の位置を**船主が決めてよい**とした。船の一番上、船縁に線を引いた例が報告されている。

1890年の改正で、商務省が位置を定めることになり、実効性を持った。

**その後**。彼は1880年に議席を失った。しかし活動をやめなかった。

家畜輸送船の実態を調べるため、自ら乗り込んだ。牛が甲板に詰め込まれ、水も与えられず、脚を折ったまま航海するのを見て、報告書を書いた。

船員組合(Sailors' and Firemen's Union)の会長を務めた。

1898年6月3日、フォークストンで死去。74歳。

**記憶**。テムズ河岸、国防省の近くに、彼の記念碑がある。船員たちの組合が費用を出した。銘は「**船乗りの友**」。

そして、世界のあらゆる商船の舷側に、円と横線の印がある。国際条約で、その印は「**プリムソル・マーク**」と呼ばれる。

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