できごと

タイムレコーダー

The time clock
AD1888年
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国グリーンランドメキシコスペイン帝国スペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国ホンジュラスグアテマラAD1888年ニューヨーク
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1888年の版図を描いています(11勢力)。

概要

ニューヨーク州オーバーンの宝石商ウィラード・バンディが、従業員ごとの鍵を差し込むと、時刻が紙に打刻される装置を作った。それまで、出勤と退勤は監督者が帳面に書き留めていた。争いが絶えない。機械が押した数字は、争えない。労働が時間で測られ、時間で支払われるという形が、ここで完成する。彼の会社は合併を重ね、1924年にIBMという名になった。時計を作っていた会社が、後に計算機の会社になった。

場所

ニューヨーク
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国

本文

工場で誰が何時に来て何時に帰ったかは、長いあいだ人の手で記録されていた。監督や門番が帳面に書き留めるのである。そこには争いが絶えなかった。自分は7時に来た、いや7時15分だった。記録する者の記憶違いや機嫌、えこひいきが、そのまま賃金を左右した。

この記録が重くなったのは、賃金が時間で払われるようになったからである。それ以前は、何個作ったかで払う出来高払いの仕事が多かった。ところが工場の仕事が分業になり、一つの製品を大勢でつないで作るようになると、一人ひとりの出来高は測りにくくなる。そこで、働いた時間で払う。すると今度は、時間を正確に、争いの余地なく測らなければならなくなる。時計そのものは中世から町に響いていたが(機械時計と、等しい一時間)、一人ひとりの時間を測る道具はまだ無かった。

1940年、シフト開始時にタイムレコーダーで打刻する英国の軍需工場労働者
1940年、シフト開始時にタイムレコーダーで打刻する英国の軍需工場労働者Wikimedia Commons Ministry of Information Photo Division Photographer · Public domain

ニューヨーク州オーバーンの宝石商で時計職人のウィラード・バンディ(1845〜1907年)が、この問題に答えた。1888年11月20日、彼は「労働者の時間記録器」の特許を得た。仕組みは単純である。従業員は一人ひとり、番号を刻んだ金属の鍵を持つ。出勤するとその鍵を機械の穴に差し込んで回す。すると紙の帯に、その番号と時刻が打ち込まれる。それだけのことである。しかし、この記録には争う余地が無い。押したのは機械であって、人ではないからだ。

翌年、バンディは弟のハーロウとともに会社を興し、時間記録器を売り出した。工場主たちはこれを歓迎した。そしてここから、奇妙な系譜が始まる。1900年、バンディの会社は他の時間記録器の会社とともに、インターナショナル・タイム・レコーディング社に統合された。1911年、この会社は、ハーマン・ホレリスが国勢調査のために作ったパンチカード集計機の会社(ホレリスのパンチカード)や、計量器の会社と合わせて、一つの持株会社にまとめられた。その経営を1914年から任されたのがトマス・J・ワトソンで、彼は1924年、社名をインターナショナル・ビジネス・マシンズ、つまりIBMに改めた。

ロンドン・ブラックフライアーズのナショナル・タイム・レコーダー社製初期のタイムレコーダー(ウーキーホール洞窟博物館)
ロンドン・ブラックフライアーズのナショナル・タイム・レコーダー社製初期のタイムレコーダー(ウーキーホール洞窟博物館)Wikimedia Commons Rodw · Public domain

時間記録器と、国勢調査の集計機が同じ会社になり、それがやがて計算機の会社になった。どちらも、人と物を数えて記録するための機械である。IBMは1958年に部門を手放すまで、時間記録器を作り続けた。

この機械が広まると、働くことの意味が変わっていった。まず、時間が賃金の単位になった。時給という考え方が当たり前になり、決まった時間を超えて働けば「残業」として別に数えられるようになる。それまでは、仕事が終わるまでやる、が普通で、そこに境目は無かった。

IBM製タイムレコーダー
IBM製タイムレコーダーWikimedia Commons Ytrottier · CC BY 2.5

遅刻も生まれた。1分遅れたことが記録され、罰される。それまでは、だいたい朝に来ればよかった。19世紀の工場の規則には、門が決まった時刻に閉まり、遅れた者はその日働けず、半日分の賃金を失う、という定めが見られる。雇う側から見れば、遅刻や無駄話や長すぎる休憩は、会社の時間を盗むことになった。時間を盗むという言い方は、いまも使われている。同じころ、技師フレデリック・テイラーはストップウォッチを手に工員の動作を秒単位で測り、仕事の手順を作り直していた(科学的管理法)。時間は、測られ、管理されるものになった。

イギリスの歴史家E・P・トムスンは1967年の有名な論文で、この変化を描いた。農業や家の中の手仕事では、時間は仕事そのものが決めていた。牛の乳を搾る時刻、潮が引く時刻、日が沈むまで、というように。それが、何時から何時まで、という時計の時間に置き換えられた。工場主は労働者に時計の時間を教え込み、学校もその一部を担った。トムスンはそれを、目立たないが深い文化の変化だと考えた。

打刻の機械そのものは、しだいに姿を変えた。紙の帯は厚紙のカードになり、やがて磁気カード、ICカード、指紋や顔の認証へと移った。パソコンへのログインや、携帯電話の位置情報が出勤の記録を兼ねるようにもなった。測られる範囲も広がった。倉庫で働く人の手首の端末、配達の車の位置、在宅で働く人の画面の記録やキーを打つ回数。2020年代に在宅勤務が広がると、こうした監視の道具も急速に広まり、どこまでが許されるのかをめぐって各国で争いが起きている。

バンディの機械がしたことは単純である。争えない記録を残す。そしてその記録は、両方に働く。雇う側は働く者を管理できる。同時に、働く者も、自分は確かにこの時刻に来て、この時刻まで働いた、と示すことができる。払われなかった残業代をめぐる裁判で、打刻の記録が働く者の側の証拠になることは珍しくない。機械が押した数字は、誰の味方にもなりうるのである。

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