概要
ロンドンの大工の子。父は建築業で成功しており、息子を建築家にしたかった。15歳で王立化学カレッジへ入り、ホフマンの助手になった。18歳の休暇の実験で、偶然、最初の合成染料モーヴを作った。師の反対を押し切って学業をやめ、父と兄と工場を建てた。36歳で会社を売り、以後は自宅の研究室で純粋な化学の研究に戻った。合成香料(クマリン)、そして磁気と分子構造の関係。息子二人も化学者になった。
関わったできごと(1)
モーヴと合成染料AD1856年 · 見つけた本文
1838年3月12日、ロンドン東部のシャドウェル。父ジョージ・パーキンは大工から身を起こした建築請負業者で、7人兄弟の末子。
家は、労働者階級から中産階級へ上がりつつあった。
**関心の移り変わり**。
少年の彼は、まず**絵**を描いた。次に**写真**、そして**機械工学**。
12歳のとき、友人の父が結晶の実験を見せた。溶液から結晶が育っていく。
「この瞬間に、私は化学者になろうと決めた。**それまで見たことのないような、新しい種類の力**が、そこにあると感じた」。
**シティ・オブ・ロンドン・スクール**。ここに、**トマス・ホール**という教師がいた。彼は昼休みに化学の課外授業を開いており、パーキンはそれに通った。
ホールが、彼を王立化学カレッジへ推した。
父は反対した。**建築家**にしたかった。ホールが説得した。
**ホフマン**。
1853年、15歳で**王立化学カレッジ**(現在のインペリアル・カレッジの前身)へ。
教授は、**アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン**。ドイツから招かれた、リービッヒの弟子。当時の有機化学の第一線。
(この学校は、アルバート公が主導して、イギリスの化学教育の遅れを埋めるために作られた。ドイツから教授を輸入したのである。)
パーキンは、**17歳で助手**になった。
同時に、彼は**自宅の最上階に自分の実験室**を作り、夜と休日に、自分の実験をしていた。
**1856年の復活祭**。
ホフマンが「キニーネを合成できないか」と語っていたのを、彼は覚えていた。
18歳の彼は、休暇中、自宅の実験室で試した。
アリルトルイジンを重クロム酸カリウムで酸化。→ 赤茶色の泥。
より単純な**アニリン**で試す。→ 黒い沈殿。
洗おうとしてアルコールを注ぐ。→ **鮮やかな紫**。
**判断**。
ここが、彼の非凡なところである。
多くの化学者なら、「面白い副産物ができた」で終わる。
彼は、**絹に染めてみた**。写真と絵に関心があり、色に敏感だったこと、そして兄が染色に近い商売を知っていたことが、背景にあるかもしれない。
染まった。**洗っても落ちない。日光でも褪せない**。
彼は、見本をスコットランドの染色会社に送り、市場性を確かめた。
そして、**特許を取った**(1856年8月、18歳。当時、未成年でも特許は取れた)。
**辞職**。
彼は、王立化学カレッジを辞めた。
ホフマンは激怒した。前途ある学生が、学問を捨てて商売に走る。師弟の関係は、しばらく冷えた。
(後にホフマンはドイツへ戻り、染料化学の指導者になる。ドイツの染料産業は、彼の弟子たちが築いた。二人は後に和解し、ホフマンはパーキンの功績を公に称えた。)
**工場**。
父ジョージが、貯金のほとんどを出した。兄トマス(建築業を継ぐはずだった)が、経営を手伝った。
1857年6月、ロンドン西郊**グリーンフォード**、ハーロー運河のほとりに工場が完成した。
パーキン19歳。
**技術的な困難**。
- 原料の**アニリン**が、工業的な量では市場にない。→ ベンゼンから自分で作る設備を建てた。 - ベンゼンも足りない。→ ガス会社からコールタールを買い、蒸留した。 - 硝酸とアンモニアの大量の取り扱い(危険で、当時の設備では事故が多かった)。 - 染色の方法。絹は染まるが、**綿が染まらない**。→ タンニンと酒石酸アンチモンで媒染する方法を自分で開発し、染色業者を訪ねて教えて回った。
原料の製造から、最終製品の使い方の指導まで、全部を自分でやった。
**成功**。
1859年、モーヴが流行の頂点に達した。
工場は拡張された。彼は次の染料も開発した(**パーキンズ・グリーン**、アリザリンの工業的製法)。
**アリザリンの争い**。
1869年、ドイツのグレーベとリーバーマン(そしてカロ)が、茜の色素**アリザリン**の合成に成功した。
パーキンも、独立に、より優れた製法に到達していた。
しかし、**彼らが特許を出願した翌日**、パーキンが出願した。
**1日の差**である。
彼はドイツ側と交渉し、イギリスでの製造権を得た。1871年、彼の工場は年間220トンのアリザリンを生産していた。
しかし、彼は悟った。**ドイツの規模と、研究体制には勝てない**。
**1874年**、36歳。
彼は工場を売却した。
得た資産で、彼は**引退**した。
**純粋化学へ**。
以後、ハーロウの自宅に研究室を作り、33年間、そこで研究した。
- **パーキン反応**(1868年)。芳香族アルデヒドと無水酢酸から桂皮酸を作る。彼の名がついている。 - **クマリン**の合成(1868年)。新しく刈った干し草の香り。**最初の合成香料の一つ**。以後の香水産業の出発点になった。 - **磁気回転**(ファラデー効果)と分子構造の関係。彼はこの研究に、後半生の大半を費やした。純粋な物理化学の仕事である。
**家族**。
二度結婚した。息子二人が化学者になった。
**ウィリアム・ヘンリー・パーキン・ジュニア**——マンチェスター大学、そしてオックスフォードの教授。天然物の合成(テルペン、アルカロイド)で、イギリスの有機化学を再建した人物の一人。
**アーサー・ジョージ・パーキン**——リーズ大学。天然色素の研究。
**1906年**。
モーヴ発見50周年。
世界中で顕彰された。ロンドンで祝賀晩餐会。アメリカの化学者たちが彼を招き、ニューヨークで盛大な式典を開いた。
**ナイト**に叙された。**サー・ウィリアム・パーキン**。
このとき創設されたのが、**パーキン・メダル**である。いまも、アメリカ化学会(工業化学部門)が授与する、応用化学の最高の賞。
**1907年7月14日**、肺炎で死去。69歳。
**残ったもの**。
彼が18歳の休暇に見つけたのは、一つの染料である。
そこから出たのは——合成染料の産業、産業研究所という制度、ドイツの化学工業、そして、そこから分かれた**医薬品産業**。
化学工業が、「経験と勘の職人仕事」から、「**分子を設計して作る産業**」に変わった。その最初の一歩である。
彼が失敗した目標——**キニーネの合成**——が達成されたのは、1944年。彼の死から37年後である。