ウィリアム・パーキン
概要
ロンドンの大工の子。父は建築業で成功しており、息子を建築家にしたかった。15歳で王立化学カレッジへ入り、ホフマンの助手になった。18歳の休暇の実験で、偶然、最初の合成染料モーヴを作った。師の反対を押し切って学業をやめ、父と兄と工場を建てた。36歳で会社を売り、以後は自宅の研究室で純粋な化学の研究に戻った。合成香料(クマリン)、そして磁気と分子構造の関係。息子三人も化学者になった。
関わったできごと(1)
モーヴと合成染料AD1856年 · 見つけた本文
ウィリアム・ヘンリー・パーキンは1838年3月12日、ロンドン東部のテムズ川沿いの町シャドウェルに生まれた。父ジョージは大工から身を起こした建築の請負業者で、ウィリアムは7人きょうだいの末っ子だった。家は労働者の暮らしから、中流へと上がりつつあった。

少年の関心は移り気だった。まず絵を描き、次に写真、それから機械に夢中になった。12歳か13歳のころ、友人の父が結晶の実験を見せてくれた。溶液の中で結晶が育っていく。その瞬間に化学者になろうと決めた、と彼は後年語っている。通っていたシティ・オブ・ロンドン・スクールには、昼休みに化学の課外授業を開くトマス・ホールという教師がいて、パーキンは欠かさずそこに通った。
ホールは彼を、ロンドンにできたばかりの王立化学カレッジへ推した。息子を建築家にしたかった父は反対したが、ホールが説き伏せた。1853年、15歳でカレッジに入る。教授はドイツから招かれたアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンで、大化学者リービッヒの弟子だった。イギリスの化学教育の遅れを埋めるため、アルバート公の後押しで作られたこの学校は、教授をドイツから迎えていたのである。パーキンは17歳で助手になり、同時に自宅の最上階に自分の実験室を作って、夜と休日に実験を続けた。

1856年の復活祭の休み、18歳のパーキンは自宅でキニーネの合成を試みた。キニーネはマラリアの薬で、熱帯の植民地を広げるイギリスにとって欠かせないのに、南米の木の皮からしか取れなかった(キニーネを取り出す)。ホフマンがそれを人工で作れないかと語っていたのを、彼は覚えていた。石炭からとれる物質を酸化させてみると、赤茶色の泥ができた。もっと単純なアニリンで試すと、黒い沈殿が出た。それを洗い流そうとアルコールを注いだとき、液は鮮やかな紫に染まった。
多くの化学者なら、面白い副産物ができた、で終わっただろう。パーキンはその紫で絹を染めてみた。染まった。洗っても落ちず、日に当てても色があせない。彼は見本をスコットランドの染物会社に送り、商売になるかを確かめ、1856年8月に特許を取った。人の手で作られた最初の合成染料の一つ、モーヴの誕生である(モーヴと合成染料)。
彼はカレッジを去った。前途ある弟子が学問を捨てて商売に走ることに、ホフマンは強く反対した。それでも父ジョージは蓄えのほとんどを出し、兄トマスが経営を手伝った。1857年、ロンドン西郊グリーンフォードの運河のほとりに工場ができた。パーキンは19歳だった。
困難は山ほどあった。原料のアニリンは、工場で使う量では売られていない。そこでガス会社からコールタールを買って蒸留し、ベンゼンを取り出し、そこからアニリンを作る設備まで自前で建てた。危険な硝酸を大量に扱う工程もあった。そして、絹はよく染まるのに、綿は染まらない。彼は色を繊維に定着させる媒染の方法を自分で工夫し、染物屋を一軒ずつ訪ねて使い方を教えて回った。原料の製造から、製品の使い方の指導まで、すべてを自分たちでやった。
1858年、ヴィクトリア女王が王女の結婚式でモーヴ色の衣装をまとい、翌年にかけてロンドンとパリでモーヴは大流行した。流行はあまりに激しく、風刺雑誌は街じゅうが紫に染まった様子を、はやり病の「モーヴのはしか」と冷やかした。工場は広がり、パーキンは次々に新しい色を作った。ほかの化学者たちもコールタールから赤や青や緑の染料を次々に生み出し、それまで高価な天然の染料でしか出せなかった鮮やかな色が、ふつうの人々の服にまで届くようになった。1869年には、茜の根からとる赤い色素アリザリンの合成で、ドイツの化学者たちとほぼ同時に優れた製法にたどり着いたが、特許の出願は相手より1日遅かった。彼はドイツ側と話をつけてイギリスでの製造権を得、しばらくイギリスのアリザリンを一手に作った。
だが彼は悟った。染料の研究で、ドイツの規模と研究の体制には勝てない。皮肉なことに、ドイツの染料工業を育てたのは、1865年に本国へ戻った師ホフマンとその弟子たちだった。1874年、36歳のパーキンは工場を売り、事業から身を引いた。
それから33年、彼はハーロウ近くの自宅の研究室で、自分の好きな化学に打ち込んだ。1868年には、新しく刈った干し草の香りのもとであるクマリンの合成に成功していた。人工の香料のさきがけで、のちの香水の産業の出発点の一つになった。その合成に使った反応は、いまも「パーキン反応」と呼ばれる。後半生の大半は、磁界の中で物質が光の向きを回す現象と、分子の形との関係を調べることに費やした。
彼は二度結婚し、3人の息子がみな化学者になった。なかでも同じ名のウィリアム・ヘンリー・パーキン・ジュニアは、マンチェスターとオックスフォードの教授として天然物の合成を進め、イギリスの有機化学を立て直した一人である。師ホフマンとはのちに和解し、ホフマンは弟子の功績を公にたたえた。
1906年、モーヴの発見から50年を祝う催しが各国で開かれた。ロンドンで祝宴があり、ニューヨークでも盛大な式典が開かれた。彼はナイトに叙され、この年、アメリカで彼の名を冠したパーキン・メダルが創設された。いまも応用化学の最高の賞の一つとして贈られている。翌1907年7月14日、パーキンは肺炎で死んだ。69歳だった。
18歳の休暇に彼が見つけたのは、一つの紫だった。そこから合成染料の産業が生まれ、企業が研究所を持つという仕組みが育ち、ドイツの化学工業が伸び、そこからアスピリンのような薬の産業が枝分かれした。化学の工業は、経験と勘の職人仕事から、分子を考えて作る産業へと変わり始めた。彼がめざして果たせなかったキニーネの合成が成し遂げられたのは、彼の死から37年後の1944年である。