人物

レオナルド・フィボナッチ

Leonardo Fibonacci
AD1170年頃 – AD1250年頃(享年80・推定)
ピサ共和国重要度 4

概要

ピサの商人の子。父はブジー(現アルジェリア)の税関の役人で、少年を呼び寄せてアラビアの計算を学ばせた。エジプト、シリア、ギリシア、シチリアを回り、各地の計算法を比べた。1202年『算盤の書』。ローマ数字を捨てて位取りの数字を使うことを説いた。皇帝フリードリヒ2世の宮廷で数学の試合に出た。「フィボナッチ」は19世紀に付けられた呼び名で、本人はレオナルド・ピサーノと名乗った。

関わったできごと(1)

フィボナッチ『算盤の書』AD1202年 · 書いた

本文

レオナルド・フィボナッチは1170年ごろ、イタリアの海洋都市ピサに生まれた。生年ははっきりしない。本人は「ピサのレオナルド」あるいは「レオナルド・ビゴッロ」と名乗った。ビゴッロの意味は、旅人とも、ものぐさとも言われ、よく分からない。いま広く使われる「フィボナッチ」は、父の名ボナッチにちなむ「ボナッチの子」の意味で、彼の死から何百年もたって、19世紀の数学史家が広めた呼び名とされる。彼自身は使っていない。

レオナルド・フィボナッチの肖像
レオナルド・フィボナッチの肖像Wikimedia Commons Original uploader was Deep also it at it.wikipedia · Public domain

当時のピサは、地中海の交易でジェノヴァやヴェネツィアと競う都市国家だった。父グリエルモはピサの商人たちのために働く公証人で、北アフリカの港ブジー(現アルジェリアのベジャイア)に置かれたピサ商人の取引所に赴任していた。父は少年を呼び寄せ、そこで計算の手ほどきを受けさせた。

主著の序文で、レオナルドはそのときのことを書いている。ブジーで、インドの九つの数字を使う計算法を教わり、何よりも心を奪われた。その後、商用の旅でエジプト、シリア、ギリシア、シチリア、プロヴァンスを回り、各地の計算のやり方を学んだが、どれもインドの方法には及ばないと判断した、というのである。0から9までの数字を使い、位によって値が変わる書き方は、インドで生まれ、アラビアの学者たちを通って地中海に広まっていた(ブラーマグプタのゼロ)。

ドゥオモ広場にあるフィボナッチの像
ドゥオモ広場にあるフィボナッチの像Wikimedia Commons Hans-Peter Postel · CC BY 2.5

1202年、彼は『算盤の書』を書き上げた(フィボナッチ『算盤の書』)。題に「算盤」とあるが、中身は算盤を使わず、紙の上で数字を書いて計算する方法の教科書である。数字の読み書きから始まり、掛け算と割り算、分数、そして商人が日々出会う問題、つまり品物の値段、利益の分け方、重さや貨幣の換算、利息の計算までを、たくさんの例題で解いてみせた。ローマ数字と算盤に頼っていたヨーロッパの商人にとって、実務にすぐ使える本だった。1228年には改訂版を出し、いま残る写本はすべてこの改訂版に基づいている。

その例題の一つが、兎のつがいの問題である。ひと組の兎が、生まれて2か月目から毎月ひと組ずつ子を産むとすると、1年後に何組になるか。答えを月ごとに並べると、1、1、2、3、5、8、13と、前の二つを足した数が続く。のちに彼の名で呼ばれるこの数列は、彼にとっては本の中の一問にすぎなかった。しかも同じ数列は、それより何百年も前に、インドの詩の韻律を研究した学者たちが、長い音節と短い音節の並べ方の数として知っていた。

フィレンツェ国立図書館所蔵のフィボナッチ『算盤の書』の頁。フィボナッチ数列をラテン数字とローマ数字で示す
フィレンツェ国立図書館所蔵のフィボナッチ『算盤の書』の頁。フィボナッチ数列をラテン数字とローマ数字で示すWikimedia Commons Public domain

彼はほかに、土地の測り方や体積を扱う『実用幾何学』(1220年)、宮廷で出された問題への答えをまとめた『花』、整数の性質を深く掘り下げた『平方の書』(1225年)を書いた。とくに『平方の書』は、当時のヨーロッパの数論として群を抜いていた。

学問を好んだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、シチリアの宮廷にアラビアとギリシアの学問に通じた人々を集めていた。1225年ごろ、皇帝がピサに立ち寄った折、レオナルドは宮廷の学者が出した難問に答えた。その一つは、ある三次方程式の解を求めよというものだった。彼は、その解が整った分数でも、ユークリッドが扱った形の無理数でもないことを示し、そのうえで、60進法を使って驚くほど正確な近似値を書き記した。どうやってその値を出したのかは書かれておらず、いまも分かっていない。

フィボナッチの近代の版画。確かな史料に基づくものではなく、本人の肖像は現存しない
フィボナッチの近代の版画。確かな史料に基づくものではなく、本人の肖像は現存しないWikimedia Commons Unknown · Public domain

1240年、ピサ市は、学識ある「レオナルド・ビゴッロ」に毎年20リラの給与を与えると決めた。市と市民のために、会計と測量について助言し教えてきた功労に報いるためだった。彼の消息はそこで途絶え、1250年ごろに死んだと推測されている。

彼は、インドの数字やその計算法を発明したわけではない。学んだものを、ヨーロッパの商人が使える形に、体系立てて書き直したのである。その後のイタリアには、商人の子に計算を教える「算術学校」が各地にでき、そこで使われた教科書の多くは、彼の本の流れをくんでいた。数字で帳簿をつける習慣が根づいた土壌の上に、のちの複式簿記の刊行や、ルネサンスの銀行(メディチ銀行)の帳簿が育った。ローマ数字が帳簿から消えるまでには、さらに長い時間がかかっている。

一方、彼が最も力を注いだ整数の研究は、ほとんど読まれなかった。同じ水準の問いに取り組む数学者がヨーロッパに現れるのは、17世紀のピエール・ド・フェルマーのころである。

兎の数列は、隣り合う数の比が黄金比(約1.618)に近づくことや、ヒマワリの種や松かさの螺旋に現れることで、後世に有名になった。植物の葉や種の並び方には、成長の仕組みから来る本物の例がある。一方、巻貝の殻や名画や古代の神殿に当てはめる話の多くは、後からこじつけたもので根拠は薄い。ピサの大聖堂の脇の墓所回廊には、19世紀に作られた彼の像が立っている。

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