人物

猪山直之

Inoyama Naoyuki
AD1810年 – AD1875年(享年65・推定)
加賀藩重要度 2

概要

加賀藩の会計を担った下級武士。借金に追われて家財を売り払い、家計簿を付け続けた。その帳面が発見されて、武士の暮らしの実像が分かった。

関わったできごと(1)

猪山家の家計簿1842年 · 記録した

本文

猪山直之は、加賀藩の御算用者の家に生まれた。加賀藩は、前田家が治める百万石の大藩で、城下の金沢には多くの武士が暮らしていた。御算用者は、藩の年貢の収入や、さまざまな支出を計算し、帳簿をつける役である。刀より算盤を扱う仕事で、武士の中での身分は高くなかった。それでも、正確に計算できる者でなければ務まらない専門職であり、猪山家は代々その技を受け継いでいた。

直之は算盤と筆の腕を見込まれ、藩の中で重く用いられた。藩主の家の暮らしにかかわる勘定を任されたとされる。その働きによって、家は少しずつ取り立てられていった。だが、勤めが評価されることと、家の暮らしが楽になることは、別の話だった。

江戸時代の後半、多くの武士の家は借金に苦しんでいた。武士の収入は、藩から与えられる米の禄で、決まった額から増えない。一方で、物の値段は上がり、身分にふさわしい暮らしを保つための出費はかさんだ。親類との付き合い、祝いごとの贈り物、冠婚葬祭、使用人を抱える費用。体面を保つための出費は、武士である限り削れなかった。猪山家も、親の代からの借金に利子が積み重なり、その額は年の収入の2倍近くにまで膨らんでいた。

1842年、直之は思い切った決断をした。家にあった道具や衣類、書画、茶道具など、売れるものをほとんど売り払い、その金を借金の返済に充てたのである。そして貸し手と交渉し、残りの借金の利子を減らしてもらったり、返済の期限を延ばしてもらったりして、返していける計画を立て直した。このとき、売った品物の名前と、売れた値段が、帳面に一つずつ書き留められた。武士の誇りであるはずの品も、その中に含まれていた。

この年から、猪山家は毎日の収入と支出を細かく帳面につけ始めた。米を売った値段、野菜や魚や酒の代金、親類や知人への贈り物の額、子どもの手習いの謝礼、法事の費用、髪結いの代金。家計の出入りが、こまごまと記されていった。帳面は直之から子の代へと引き継がれ、明治の初めまで、およそ37年分が残った。

帳面からは、苦しい暮らしの中の工夫も見えてくる。たとえば、息子の祝いの席に、本物の鯛を用意する金がなく、鯛の絵を描いて膳に載せた、という記録がある。祝いの形は守らなければならない。だが、金はない。その間で、猪山家は知恵を絞った。一方で、子どもの教育にかける費用は惜しまなかった。読み書きと算盤の技こそが、この家を支えてきたからである。

時代は大きく動いた。1868年に幕府が倒れ、1871年の廃藩置県で藩がなくなると、武士という身分そのものが消えていった。禄を失った多くの武士の家は、暮らしの道を見失った。だが、猪山家には算盤と帳簿の技があった。新しい政府も軍隊も、正確に計算し、記録できる人を必要としていた。直之の息子の成之は、その技を買われて新政府に仕え、やがて海軍で会計を担う主計の仕事に就いた。家の技は、身分が変わっても生き延びた。

廃藩置県に関わる図版:Modern Japan prefectures map in 1872
廃藩置県Wikimedia Commons Yoshida Togo (1860-1932) et al · Public domain

直之自身は、歴史に名を残すような人物ではなかった。だが、猪山家の帳面は、20世紀の終わりに古書の市場に出て、歴史学者の磯田道史の目にとまった。磯田は、その帳面を読み解いて、2003年に一冊の本にまとめた。幕末の武士が、何にいくら使い、どこで苦しみ、どう工夫して暮らしていたのか。それまで抽象的にしか語られなかった武士の暮らしが、具体的な数字で見えるようになった。武士は身分を保つための出費に縛られていた、という見方は、この帳面によって裏付けられた。本は広く読まれ、2010年には映画にもなった(物語「『武士の家計簿』で読む幕末」)。

帳面をつけ続けた、というただそれだけのことで、150年あまり後の人々は、一つの武士の家の暮らしを、まるで隣の家のように知ることができるようになった。武士の時代の大きな流れ(物語「武士の700年」)の中では、名もない一人の会計役にすぎない。だが、その几帳面さこそが、歴史を伝える力を持っていた。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1810年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →