人物

ハーマン・ホレリス

Herman Hollerith
AD1860年2月29日 – AD1929年11月17日(享年69)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

ニューヨーク州バッファロー。ドイツからの移民の子。コロンビア大学鉱山学校を19歳で卒業し、恩師に誘われて国勢調査局に入った。集計の遅さを見て、機械化を考えた。1884年に最初の特許。1890年の調査で実証し、翌年から各国の調査を受注した。会社は1911年に合併してCTR社となり、1924年にIBMと改称される。彼自身は経営の主導権を失って引退し、晩年はメリーランドで牛を飼っていた。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

ホレリスのパンチカードAD1890年 · 作った

本文

ハーマン・ホレリスは1860年2月29日、4年に一度のうるう日に、ニューヨーク州バッファローで生まれた。父ゲオルクはドイツのプファルツ地方から渡ってきたラテン語の教師で、1848年の革命が挫折したあとアメリカに移った人々の一人だった。7歳のとき、父が馬車の事故で死んだ。母が帽子を作って一家を養った。

ハーマン・ホレリスの肖像
ハーマン・ホレリスの肖像Wikimedia Commons Charles Milton Bell · Public domain

少年は綴りの勉強が大の苦手だった。ある日、綴りの授業から逃れるために教室の窓から飛び降りた、という話が伝わっている。以後は家庭教師について学んだ。文字より数と機械を好んだ子だった。15歳でニューヨークの市立の学校に入り、続いてコロンビア大学の鉱山学校に進んで、1879年、19歳で鉱山工学の学位を得た。

恩師のトラウブリッジ教授は、1880年の国勢調査の顧問をしていた。教授に誘われ、ホレリスは国勢調査局に入って製造業の統計を担当した。そこで彼は集計の現場を見た。何百人もの職員が調査票を一枚ずつ読み、印をつけて数え上げていく。合衆国の国勢調査は最初の国勢調査以来10年ごとに行われてきたが、人口が増えるにつれて集計は追いつかなくなっていた。1880年の調査は、集計を終えるのに7年以上かかった。このままでは、1890年の調査は次の調査までに数え終わらないかもしれなかった。

ホレリスのタビュレーティングマシンとソーター
ホレリスのタビュレーティングマシンとソーターWikimedia Commons Adam Schuster · CC BY 2.0

局には、ジョン・ショー・ビリングズという軍医がいた。のちに医学文献の索引を作り、ニューヨーク公共図書館の初代館長になる人物である。ホレリスの回想によれば、ある夕食の席で、ビリングズは、一人ひとりの情報をカードか何かに穴で記して、機械で数えられるはずだ、と言った。ホレリスはそれを考え始めた。のちにビリングズの側からは着想を与えたのは自分だという声も出たが、ホレリスは、示唆はあったが機械そのものは自分が考えた、と応じている。

もう一つ、彼が語った着想の源がある。西部へ向かう列車で、車掌が切符に穴を開けるのを見た。当時の切符は、転売を防ぐため、乗客の性別や背の高さ、髪や目の色などを、決まった位置の穴で記録していた。人を穴の配置で書き表すことができるのだ。

アメリカ合衆国国勢調査局が使っていたホレリスのカードパンチャー
アメリカ合衆国国勢調査局が使っていたホレリスのカードパンチャーWikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

1882年、彼はマサチューセッツ工科大学で機械工学を教えたが、教えるのは好きではなかった。1884年にはワシントンの特許局で1年ほど働いた。そこで特許の書き方を身につけたことが、のちに大きく効いた。彼の特許は、広く、崩されにくく書かれていた。同じ1884年、最初の特許を出願した。

初めの試作では、長い紙テープに穴を開けた。だがテープでは、途中の1件を探すのに全体を送らねばならず、間違いを直すこともできない。彼はカードに切り替えた。1枚が1人。順番を入れ替えられ、1枚だけ差し替えられ、条件ごとに仕分けられる。カードの大きさは当時のドル紙幣とほぼ同じにした。紙幣用の箱や棚がそのまま使えたからだ。

ホレリスの墓(ワシントンD.C.、オークヒル墓地)
ホレリスの墓(ワシントンD.C.、オークヒル墓地)Wikimedia Commons Author and original uploader is Astrochemist at en.wikipedia · Public domain

読み取りの仕組みが、彼の発明の中心だった。カードを台に置き、上から多数の針を押し下げる。穴のあるところでは、針はカードを抜けて、下の小さな杯に入った水銀に触れる。電気の回路がつながり、電磁石が動いて、その項目を数えるダイヤルが一目盛り進む。条件に合うカードのときだけ、そばの仕分け箱のふたがぱたりと開き、係員はそこへカードを入れる。機械が数え、仕分けを指示し、人が手を動かす仕組みだった。

1887年にはボルティモアの死亡統計で試され、1889年、国勢調査局は三つの方式を比べる試験をした。ホレリスの方式は、集計の速さでほかの二つを大きく引き離した。1890年の調査で、彼の機械が採用された(ホレリスのパンチカード)。数えられた人口は6262万2250人。性別、年齢、人種、結婚の有無、生まれた土地、職業、読み書きの力などが、人々のカードに穴で記された。人口の速報はわずか6週間で出た。詳しい集計を含めても、前回よりはるかに短い期間で終わった。この調査の結果をもとに、国勢調査局は1891年ごろ、もはや西部に開拓の最前線(フロンティア)と呼べる線は引けない、と報告した。アメリカの歴史の一つの区切りを告げたのは、穴のあいたカードの山だった。

ホレリス式パンチカード
ホレリス式パンチカードWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1896年、彼はタビュレーティング・マシン社を作った。機械は売らずに貸し、カードは自社から買ってもらう。機械を貸して、消耗品と保守で稼ぎ続けるこの商売の形は、のちにこの会社の後身の中心になり、独占をめぐる訴えの的にもなる。客は各国の政府に広がった。1897年には、ロシア帝国の最初で最後となった全国の国勢調査で、1億2500万人あまりがカードで数えられた。オーストリア、カナダ、ノルウェー、フランス、イギリス、フィリピン。やがて鉄道会社は貨車の運用に、保険会社は加入者の計算に、電力会社は料金の計算に、百貨店は在庫と売上に、この機械を使い始めた。国勢調査から離れて、会社の事務が主な市場になった。

一方で、1900年の調査では使用料を大きく引き上げ、国勢調査局と対立した。局は自前の機械を技師ジェームズ・パワーズに作らせ、パワーズはのちに独立して会社を興した。それはやがて、ホレリスの会社の後身にとって最初の大きな競争相手になる。ホレリスは局を訴えたが、負けた。

1911年、体を壊していた彼は、実業家チャールズ・フリントの勧めを受け入れ、会社を売った。彼の会社は、はかりや業務用の時計、出退勤を記録する機械の会社と合わさって、「計算・集計・記録」の名を持つ会社になった。ホレリスは株と年2万ドルの顧問料を受け取って経営から退いた。1914年、フリントは、ナショナル・キャッシュ・レジスター社を追われた営業の名人トマス・ワトソンを経営者に迎えた。1924年、会社はインターナショナル・ビジネス・マシーンズ、つまりIBMと名を改めた。

晩年のホレリスは、ワシントン近郊のメリーランド州、ポトマック川沿いの農場でガーンジー種の牛を飼った。太っていて、葉巻を好み、人づきあいを嫌った。1929年11月17日、彼は心臓発作で死んだ。69歳だった。うるう日生まれの彼が、本当の誕生日を迎えたのは、1900年がうるう年でなかったこともあって16回だけだった。

パンチカードはその後半世紀以上、世界中の集計を担い、初期の電子計算機にも、プログラムとデータを読み込ませる道具として受け継がれた(計算機で天気を解く)。1928年にIBMが定めた80欄のカードの「80」という数は、のちに計算機の画面の1行の文字数になり、いまもプログラムの1行を80文字までに収める習慣として残っている。19世紀のドル紙幣の大きさが、その数の背後にある。人の情報を、機械が読める形に置き換えて数える。その考えの最初の大規模な実例が、1890年のアメリカの国勢調査だった。

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