概要
ニューヨーク州バッファロー。ドイツからの移民の子。コロンビア大学鉱山学校を19歳で卒業し、恩師に誘われて国勢調査局に入った。集計の遅さを見て、機械化を考えた。1884年に最初の特許。1890年の調査で実証し、翌年から各国の調査を受注した。会社は1911年に合併してCTR社となり、1924年にIBMと改称される。彼自身は経営の主導権を失って引退し、晩年はメリーランドで牛を飼っていた。
関わったできごと(1)
ホレリスのパンチカードAD1890年 · 作った本文
1860年2月29日(**うるう日**)、ニューヨーク州バッファロー生まれ。
父ゲオルク・ホレリスは、ドイツのパラティネートから移住したラテン語教師。1848年革命の後に亡命した「フォーティ・エイターズ」の一人。
7歳のとき、父が馬車の事故で死んだ。母シャルロッテが、帽子作りで一家を養った。
**綴り**。
少年時代、彼は**綴字(スペリング)が苦手**で、それを嫌った。
伝わっている話。ある日、綴りの授業を逃れるため、彼は**教室の窓から飛び降りて逃げた**。以後、家庭教師に付いた。
(この逸話は、後年、「彼が文字よりも数と機械を好んだ理由」として語られる。)
**コロンビア**。
15歳でニューヨークの市立大学、そして**コロンビア大学鉱山学校**へ。
1879年、**19歳**で卒業。鉱山工学の学位。
**国勢調査局**。
恩師の**ウィリアム・P・トラウブリッジ**教授が、1880年の国勢調査の顧問を務めていた。彼はホレリスを助手として誘った。
ホレリスは、統計の部門に配属された。担当は、**製造業の統計**。
そこで、彼は集計の現場を見た。数百人が、手で調査票を読み、正の字を書き、集計している。
**1880年の調査の集計は、7年かかった**。
**着想**。
局には、**ジョン・ショー・ビリングズ**という医師がいた(軍医で、後に医学図書館の索引『インデックス・メディクス』を作り、ニューヨーク公共図書館を設立する人物)。
ホレリスの回想によれば、ビリングズと夕食の席で話していたとき、彼がこう言った。
「**人口の統計を集計する機械が、あるべきだ。カードか何かに、個人の情報を穴で表して**」。
ホレリスは、それを考え始めた。
(後年、ビリングズの娘が「父がアイデアを与えた」と主張し、ホレリスは「示唆はあったが、機械そのものは自分が考えた」と応じた。)
もう一つの着想の源として、彼が語った話。
西部への鉄道の旅で、**車掌が切符に穴を開ける**のを見た。
当時の切符は、転売を防ぐために、乗客の特徴を穴で記録した。「パンチ・フォトグラフ」——性別、身長、髪の色、目の色、鼻の形、顎鬚の有無。
**人を、穴の配置で記述する**。
**MIT、そして特許局**。
1882年、彼はマサチューセッツ工科大学で機械工学を教えた。教えるのは好きではなかった、と書いている。
1884年、ワシントンの**特許局**に勤めた。1年。
(この期間に、特許の書き方を学んだことが、後に決定的に効いた。彼の特許は、極めて広く、そして堅牢に書かれている。)
**1884年9月23日**、最初の特許を出願。
**開発**。
初期の試作では、**紙テープ**を使った。連続した帯に穴を開ける。
**失敗した**。途中の1件を探すために、テープ全体を送らねばならない。訂正もできない。
彼は、**カード**に変えた。
1枚が1人。順序を変えられる。1枚だけ差し替えられる。仕分けられる。
カードの大きさは、当時の**ドル紙幣**と同じ(3¼×7⅜インチ)にした。既存の書類箱と金庫が使えるから。
**読み取りの機構**。
これが、彼の中心的な発明である。
カードを、金属の台の上に置く。**上から、多数の針が下りる**。
穴があれば、針はカードを貫き、**下の水銀の入った小さな杯**に触れる。
回路がつながる。電磁石が動き、対応するダイヤルが1目盛り進む。
同時に、条件に合ったカードのときだけ、下の**仕分け箱の蓋**が開く。係員は、開いた箱にカードを入れる。
(つまり、機械は「数える」と「分ける」を同時にやり、仕分けそのものは人がやった。)
**証明**。
1887年、ボルティモアの死亡統計。1889年、ニュージャージー州とニューヨーク市。
1889年、国勢調査局の**競争試験**。
3つの方式を比較した。転記と集計の速度。
ホレリス方式が、**集計で他の方式の8倍以上速かった**(5時間28分 対 44時間、55時間)。
**1890年の調査**。
人口 **6262万2250人**。カード枚数、同じだけ。
(各人のカードには、性別、年齢、人種、婚姻状況、出生地、両親の出生地、職業、識字、疾病などが穴で記録された。)
**主要な集計は、6週間で終わった**。
(「速報値」が6週間、詳細な分析を含む全体でも2年半。前回の7年と比べれば、劇的な短縮である。)
**事業**。
1896年、**タビュレーティング・マシン社**を設立。
彼の商法。
**機械は売らない。貸す**。
そして、**カードは自社から買わせる**。
(この構造——ハードウェアを貸し、消耗品と保守で継続的に収益を得る——は、後にIBMの中核になる。そして、1936年と1950年代の独占禁止法の訴訟の対象になる。)
**顧客**。
- **ロシア帝国**(1897年、帝国最初にして最後の国勢調査。1億2500万人) - オーストリア、カナダ、ノルウェー、フランス、イギリス、フィリピン、キューバ - そして、**企業**——鉄道(貨車の運用)、保険(保険数理)、電力(料金計算)、百貨店(在庫と売上)、農務省(作物統計)
**国勢調査から離れて、企業の事務処理が主要な市場になった**。
**衝突**。
1900年の国勢調査。彼は機械の使用料を、大幅に値上げした。
新しい調査局長**シメオン・ノース**(1903年に恒久的な機関になった)が、これに反発した。
局は、**自前の機械を作らせた**(技師ジェームズ・パワーズによる)。1911年、パワーズは独立して会社を作り、後に**レミントン・ランド**(さらにスペリー・ランド)となる。IBMの、最初の主要な競合である。
ホレリスは、局を訴えた。敗訴した。
**売却**。
1911年、健康を害していた彼は、実業家**チャールズ・R・フリント**の提案を受け入れた。
彼の会社と、他の3社——計量器、業務用時計、勤怠記録機——が合併して、**CTR社**(Computing-Tabulating-Recording Company)になった。
彼は、株式と、年間2万ドルの顧問料を得て、経営から退いた。
1914年、フリントが、ナショナル・キャッシュ・レジスター社を追われた**トマス・J・ワトソン**を、経営者として招いた。
1924年、社名変更。**International Business Machines**。
**晩年**。
彼は、ワシントン近郊、メリーランド州のポトマック川沿いに農場を買い、**ガーンジー種の牛**を飼った。
牛の血統と乳量を、自分の機械で管理していた、という話が伝わっている。
太っていて、葉巻を好み、社交を嫌った。
**1929年11月17日**、心臓発作で死んだ。**69歳**。
**残ったもの**。
パンチカードは、その後60年、あらゆる集計を担った。
そして、その仕組み——**データを、機械が読める形に符号化する**——は、いまも生きている。
彼が定めた**カードの寸法**は、1928年にIBMが80欄式に改めるまで使われ、その80欄という数が、後に**コンピュータ端末の1行の文字数**になった。
いまでも、多くのプログラミングの現場で、「**1行は80文字まで**」という慣習が残っている。
19世紀のドル紙幣の大きさが、そこに残っている。