人物

ジョン・ハリソン

John Harrison
AD1693年4月3日 – AD1776年3月24日(享年82)
イギリス重要度 4

概要

ヨークシャーの大工の子。学校にほとんど行かず、木で時計を作った(歯車も木。油が要らないように、自己潤滑性のある癒瘡木を使った)。振り子が温度で伸び縮みするのを、膨張率の違う二種の金属を組み合わせて打ち消す仕組み(グリッドアイアン振り子)を発明した。船では振り子が使えないので、ぜんまいと天符に移った。経度委員会と40年争った。83歳で死んだ。

関わったできごと(1)

ハリソンの航海時計AD1761年 · 作った

本文

ジョン・ハリソンは1693年3月24日(当時の暦。いまの暦では4月3日)、イングランド北部ヨークシャーのフォールビーに生まれた。父ヘンリーは大工で、一家は間もなく東のリンカンシャー、ハンバー川のほとりの村バロー・アポン・ハンバーに移った。ジョンは学校にほとんど通わず、父のもとで大工の仕事を覚えた。

クロノメーターH5
クロノメーターH5Wikimedia Commons Racklever at English Wikipedia · CC BY 2.5

少年時代の話として、6歳で天然痘にかかって寝込んだとき、枕元に懐中時計を置いてもらい、その音を何時間も聞き、中の仕組みを見つめていたと伝えられる。のちには、教区の牧師から借りた自然哲学の講義の写本を、図まで含めて一字一句書き写して学んだ。

1713年、20歳のころ、彼は最初の振り子時計を作った。歯車まで、ほとんど木でできていた。大工の子として木の性質を知り尽くしていたからである。当時の時計の大敵は油だった。歯車や軸に差した油は、時がたつと酸化して粘り、埃を集め、冬には固まって時計を狂わせる。ハリソンは、樹脂を含んで自ら滑りがよい西インド諸島の非常に硬い木(リグナムバイタ)を軸受けに使い、油を差さなくても動く時計を作った。

ジョン・ハリソンの肖像
ジョン・ハリソンの肖像Wikimedia Commons Thomas King († circa 1796 date QS:P,+1796-00-00T00:00:00Z/9,P1480,Q5727902 ) · Public domain

彼はさらに、時計を狂わせるもう一つの敵、温度にも挑んだ。金属の振り子は暑いと伸び、寒いと縮む。振り子が長くなれば時計は遅れる。ハリソンは、伸び方の違う真鍮と鋼の棒を交互に組み合わせ、一方が伸びる分を他方が打ち消して、振り子の長さが変わらないようにした。歯車を止めては放す仕掛けも、ほとんど摩擦のない独自のものを考えた。1720年代に彼が作った屋敷の厩舎の塔時計は、ひと月に1秒ほどしか狂わなかったとされ、いまも動いている。

そのころイギリスでは、海の上で経度を知る方法が国の大問題になっていた。緯度は太陽や星の高さで分かるが、東西の位置、つまり経度を知るには、出発した港の時刻と船の上の時刻の差を正確に知る必要がある。1日に地球は360度回るので、1時間の差は経度15度に当たる。ところが揺れ、湿り、暑さ寒さが激しく変わる船の上で、狂わずに動く時計はなかった。位置を見失った船は座礁し、多くの命が失われた。1707年には、霧の中で位置を誤ったイギリス艦隊がイングランド南西端の沖のシリー諸島の岩礁に乗り上げ、提督をはじめ千人を優に超える水兵が死んでいる。1714年、議会は、経度を一定の精度で求める方法に巨額の賞金を出すと定めた(経度法)。

19世紀半ばのロングケース時計(グランドファーザー・クロック)機構の断面木版画
19世紀半ばのロングケース時計(グランドファーザー・クロック)機構の断面木版画Wikimedia Commons Edmund Beckett (Lord) Grimsthorpe · Public domain

1730年、37歳のハリソンはロンドンに出た。天文学者エドモンド・ハレーを訪ねると、ハレーは彼を当代一の時計職人ジョージ・グレアムに紹介した。グレアムは朝から夜まで彼と語り合い、試作の資金を無利子で貸した。

ハリソンが5年かけて作った最初の航海用の時計(H1)は、真鍮と木でできた重さ30キロを超える大きな機械だった。船の揺れを打ち消すため、ばねでつながれた二つの振り子が互いに逆に揺れる。1736年、リスボンへの試験の航海で、帰りの船の位置の見積もりを大きく正し、船長の信頼を得た。経度の審査にあたる委員会は初めて会合を開き、改良のための資金を与えた。

地球儀上の経線
地球儀上の経線Wikimedia Commons Pearson Scott Foresman · Public domain

だがハリソンは自分の時計に満足しなかった。2台目(H2)は完成後に自ら欠点を見つけて試験を申し出ず、3台目(H3)には19年を費やした。この間に彼は、伸び方の違う二つの金属を貼り合わせ、温度で反る性質を利用する板(バイメタル)や、転がりで摩擦を減らす軸受けを考え出している。いまの温度調節の装置にも使われる仕組みである。

そして彼は、大きな機械という方針そのものを捨てた。1759年に完成した4台目(H4)は、直径13センチほどの大きな懐中時計だった(ハリソンの航海時計)。小さな天符を速く振動させれば、外からの揺れに乱されにくい。軸受けには宝石を使った。1761年から翌年にかけてのジャマイカへの航海で、H4は81日間でわずか5秒ほどしか狂わなかった。続くバルバドスへの試験でも、賞金の条件をはるかに上回る成績を出した。

アンリ・シュリーの時計。脱進機(図2)と船上用の懸架機構(図7)を示す
アンリ・シュリーの時計。脱進機(図2)と船上用の懸架機構(図7)を示すWikimedia Commons Ferdinand Berthoud · Public domain

ところが委員会は、すぐには賞金を払わなかった。偶然かもしれない、ほかの職人にも同じものが作れることを示せ、仕組みをすべて明かせ、と条件を重ねた。1765年、ハリソンは賞金の半分と引き換えに、時計の構造をすべて公開させられた。審査にあたった王室天文官マスケリンは、月と星の位置から経度を割り出す別の方法を推す立場にあり、ハリソンの側は不公平だと激しく抗議した。もっとも、マスケリンを単純な悪役とするのは行き過ぎで、一台の時計に国の航海を預ける危うさを真剣に案じていた面もある、という見方もある。実際、二つの方法はその後しばらく併用された。

80歳近くになったハリソンは、5台目の時計を作り、国王ジョージ3世に直訴した。国王は自分の天文台で10週間にわたって時計を試させ、その狂いは1日に3分の1秒ほどだった。国王は、ハリソン、私が君の正しさを認めさせよう、と言ったと伝えられる。1773年、議会は賞金とは別の形で、残りに近い額を彼に贈った。

ハリソンのH4クロノメーター(1761年)の図。『ハリソン氏の時計の原理』(1767年刊)より
ハリソンのH4クロノメーター(1761年)の図。『ハリソン氏の時計の原理』(1767年刊)よりWikimedia Commons Ferdinand Berthoud · Public domain

1776年3月24日、ハリソンはロンドンの自宅で死んだ。旧暦で数えれば、83歳の誕生日だった。その少し前、ジェームズ・クックは2度目の太平洋の航海(クックの太平洋航海)に、H4を写した時計を持って出かけ、その正確さをたたえていた。

彼の時計の子孫は、やがて航海用の時計として世界の船に積まれた。1884年、経度の基準となる本初子午線がグリニッジに定められたのは、世界の船の多くがイギリスの海図と航海暦を使っていたからである(本初子午線会議)。その土台の一部を、大工の子の時計職人が築いた。H1からH4はいまグリニッジの博物館にあり、20世紀に一人の海軍士官が長い年月をかけて修復した最初の3台は、いまも時を刻んでいる。

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