概要
ヨークシャーの大工の子。学校にほとんど行かず、木で時計を作った(歯車も木。油が要らないように、自己潤滑性のある癒瘡木を使った)。振り子が温度で伸び縮みするのを、膨張率の違う二種の金属を組み合わせて打ち消す仕組み(グリッドアイアン振り子)を発明した。船では振り子が使えないので、ぜんまいと天符に移った。経度委員会と40年争った。83歳で死んだ。
関わったできごと(1)
ハリソンの航海時計AD1761年 · 作った本文
1693年3月24日(旧暦。新暦では4月3日)、ヨークシャーのフォールビー生まれ。父ヘンリーは大工。一家は間もなくリンカンシャーのバロー・アポン・ハンバーへ移った。
**学校**。ほとんど行っていない。彼が受けた教育の記録は乏しい。
伝えられている挿話。6歳のとき天然痘にかかり、寝床に懐中時計を置いてもらって、何時間もその音を聞き、機構を見つめていた。
近くの教区牧師が持っていた自然哲学の講義の写本を、彼は一字一句、図まで含めて手で写した。
**木の時計**。1713年、20歳。最初の振り子時計を作った。歯車も、脱進機も、ほとんどオーク材。歯車の歯は木目に沿って切り出してある。
なぜ木か。彼が大工の子で、木の性質を知っていたから。そしてもう一つ、**癒瘡木(リグナムバイタ)**。西インド諸島産の、極度に硬く、樹脂を含んで自己潤滑する木。これを軸受に使えば、**油が要らない**。
当時の時計の最大の敵は、油の劣化だった。動物性・植物性の油は、酸化して粘り、埃を集め、冬に固まる。
**振り子の温度補正**。金属の棒は、暑いと伸びる。振り子が長くなれば、時計は遅れる。
彼は**グリッドアイアン振り子**を作った。真鍮と鋼の棒を、交互に、互い違いに連結する。真鍮のほうが膨張率が大きいので、鋼が下へ伸びる分を、真鍮が上へ押し戻す。長さが変わらない。
**グラスホッパー脱進機**。二本の腕が交互に歯車を止める。滑る動きがなく、摩擦がほとんどない。だから、これも油が要らない。動く様が、バッタの脚に似ている。
1720年代、彼の作った塔時計(ブロックルズビー・パークの厩舎の時計)は、**1か月に1秒以下**の誤差だった。当時の最高の時計より一桁良い。この時計は300年後のいまも動いている。
**経度へ**。1730年、37歳。ロンドンへ出た。王室天文官エドマンド・ハリーに会い、ハリーは彼を、当時の最高の時計職人**ジョージ・グレアム**に紹介した。
グレアムは、朝10時から夜まで彼と話した。そして、200ポンドを、無利子・無期限で貸した。
**H1**(1730〜1735)。真鍮と木。34kg。ジンバルなし(船の傾きに強い構造そのものを持たせた)。二つの錘付きの棒が、ばねで結ばれ、逆位相で揺れる。
1736年、リスボンへの試験航海。帰路、船の位置を大幅に修正させ、船長が証明書を書いた。経度委員会が初めて会合を開き、改良のための500ポンドを与えた。
**H2**(1737〜1740)。完成後、彼は自分で欠陥を見つけた。船が旋回するときに誤差が出る。試験を申し出なかった。
**H3**(1740〜1759)。19年。753部品。ここで彼は二つのものを発明した。
**バイメタル**(膨張率の違う二種の金属を貼り合わせた板。温度で反り、その反りを補正に使う。いまの温度計とサーモスタットの基本)。
**ケージド・ローラー・ベアリング**(転がり軸受。摩擦を減らす)。
しかし、精度は足りなかった。
**H4**(1755〜1759)。
彼は根本から方針を変えた。大きな機械ではなく、**直径13cm、1.45kgの、大型の懐中時計**。
理由。速く振動する天符のほうが、外から加わる乱れに強い(毎秒5振動)。ダイヤモンドとルビーの軸受で摩擦を減らす。温度補正はバイメタルの小さなばね。
彼は書いている。「私は、この時計より美しい機械を、他に見たことがないと思う。……そして、私が長い年月と、たいへんな労苦の末に、これを完成させたことを、神に感謝する」。
**試験と、委員会**。1761〜62年、ジャマイカ。81日で誤差5.1秒。1764年、バルバドス。誤差39.2秒。
いずれも、要求(30分以内)を桁違いに上回った。
委員会は払わなかった。まぐれである、条件が足りない、他人が作れることを示せ、設計を全部公開せよ。
1765年、半額の1万ポンドと引き換えに、H1〜H4の全構造を公開させられた。1766年、H4は分解され、王室天文官マスケリンに渡された。
**マスケリン**。競合する方法(月距法)の推進者であり、その方法の暦を編纂して利益を得る立場にあり、そして審査員だった。彼はH4を扱い、精度が出ないと報告した。ハリソンの息子ウィリアムは、時計の扱いが不適切だったと激しく抗議した。
(後世の評価は割れている。マスケリンを悪役として描くのは単純すぎ、彼は彼で、一台の時計に国家の航海を委ねることの危うさを本気で心配していた、という見方もある。実際、月距法とクロノメーターは、その後しばらく併用された。)
**H5**(1770)。ハリソンは最後の一台を作り、1772年、79歳で、国王**ジョージ3世**に直訴した。国王は自身のキューの天文台で10週間の試験を行い、誤差は1日3分の1秒だった。
国王は言ったと伝えられる。「神かけて、ハリソン、私が君の仇を討ってやる」。
1773年、議会が特別法で**8750ポンド**を支給した。経度法の賞金としてではなく、恩恵として。
**死**。1776年3月24日、83歳の誕生日に、ロンドンのレッドライオン・スクエアの自宅で死んだ。
**その後**。H1〜H4は、グリニッジの国立海洋博物館にある。1920年代、海軍の技術者ルパート・グールドが、私費と余暇で12年かけて全部を修復した。H1、H2、H3は、いまも動いている。
1884年に本初子午線がグリニッジに決まったのは、当時の世界の船の大半がイギリスの海図と『航海暦』を使っていたからである。その基盤の一部を、この時計職人が作った。
2006年、ウェストミンスター寺院に記念碑が置かれた。刻まれているのは、彼の名と、経度の数値である。