アラステア・ピルキントン
概要
同名の硝子会社の創業家とは血縁が無い。ケンブリッジで機械科学を学び、第二次大戦でクレタ島で捕虜になり、二年半を収容所で過ごした。復員して学業を終え、1947年にピルキントン社へ入った。1952年、皿洗いをする妻の手元で、水に浮いた油の膜を見て着想したと語っている。会社は七年、成果の出ない試験に金を出し続けた。1973年から社長。特許を高圧的に使わず、実施権を広く許諾したことで方式が世界標準になった。
本文
ライオネル・アレクサンダー・ベスーン・ピルキントンは1920年1月7日に生まれた。ふだんはアラステアと呼ばれた。のちに彼が人生のほとんどを捧げるガラス会社ピルキントン・ブラザーズと同じ姓だが、創業家とは血のつながりがない。入社のとき、そのことを自分から説明したと伝えられる。
パブリックスクールのシャーボーン校を出て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで機械科学を学んだ。在学中に第二次世界大戦が始まり、彼は学業を中断して王立砲兵隊に入った。1941年、ドイツ軍がギリシアと地中海の島々に攻め込むと、彼の部隊は退却できずに取り残され、彼は捕虜になった。それから戦争の終わりまでの数年を、ドイツの捕虜収容所で過ごした。収容所では、捕虜の中の教師や学生が互いに教え合う講座が開かれていて、彼もそこで勉強を続けたという。
戦後、ケンブリッジに戻って学位を取り、1947年、イングランド北西部セント・ヘレンズのピルキントン・ブラザーズに入った。19世紀前半に創業した同族の会社で、イギリスの板ガラスの市場をほぼ握っていた。
当時、窓や鏡に使う平らで歪みのないガラスを作るには、板状に固めたガラスの両面を、時間をかけて研削し磨く必要があった。磨けば手間がかかり、ガラスも削られて無駄になる。安い方法で作ったガラスは表面が波打ち、向こうの景色が揺れて見えた(板ガラスと窓)。中世のヴェネツィアの職人たち(ムラーノの硝子職人)から数えて何百年も、透明で平らなガラスは手間のかかる高級品であり続けていた。
1952年、ピルキントンに一つの考えが浮かんだ。妻が皿を洗っているとき、流しの水に浮いた油の膜が完全に平らに広がっているのを見て思いついた、と彼は後年語っている。溶けたガラスを、溶けた金属の上に流して浮かべる。液体の上に浮いた液体は、重さと表面張力で自然に平らになり、両面とも磨いたような面になる。浮かべる金属にはスズが選ばれた。ガラスより重く、ガラスが固まる温度でも液体のままで、しかもガラスが固まる前に沸騰しないからである。
もっとも、溶けた金属の上でガラスを作る発想そのものは、それ以前にも特許として出されていた。ピルキントンの仕事は、それを実際に工場で動く方法にまとめ上げ、会社を説得し続けたことにある。
開発は1952年から7年にわたった。溶けたスズが酸素に触れて汚れないよう、炉の中を特別な気体で満たさなければならない。ガラスの厚さを思いどおりにそろえるのも難しかった。売り物にならないガラスが10万トン以上積み上がり、費用は当時の金で数百万ポンドにのぼったとされる。それでも会長のハリー・ピルキントン卿は、金を出し続けた。株主に毎期の成果を説明しなくてよい同族会社だったことが、ここでは有利に働いた。
1959年1月20日、会社は新しい製法を公表した(フロート法)。研磨の工程がいらず、歪みのない板ガラスを、溶けた原料から途切れなく流し出せる。世界のガラスの作り方は、それから十数年のうちにこの方法へ移っていった。
ピルキントンはこの方法を独り占めにしなかった。会社は特許を抱え込むのではなく、世界のガラス会社に実施権を広く与える道を選んだ。1962年にアメリカの大手が契約したのを皮切りに、各国の会社が続いた。方式は世界の標準になり、その使用料は会社の大きな収入源になった。
彼は1955年に取締役になり、1970年にナイトの爵位を受け、1973年から1980年まで会長を務めた。会社の外でも大学や産業界の役職を引き受けた。1995年5月5日に死んだ。75歳だった。
いま、世界の板ガラスの大部分がこの方法で作られている。私たちが窓越しに見ている景色は、たいてい、溶けたスズの上を静かに流れて平らになったガラスを通っている。スズに触れていた側の表面にはごくわずかなスズがしみ込んでいて、紫外線を当てるとその面だけがぼんやり光る。ガラスを扱う職人は、これで「スズ面」を見分けるという。思いつくことより、それが動くと信じて7年間待ち続けることのほうが難しかった、という趣旨のことを、彼は語っている。