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Person / 人

クリスチャン・バーナード

Christiaan Barnard
AD1922年11月8日 – AD2001年9月2日(享年78)
南アフリカ重要度 3

概要

ケープ州の貧しい牧師の家。兄は5歳で心臓病で死んだ。ケープタウン大学、そしてアメリカのミネソタ大学で心臓外科を学んだ。1967年、世界初の人から人への心臓移植。一夜で世界的な有名人になった。人種隔離政策の国から出た称賛に、批判も伴った(彼自身は病院の人種別の区分に反対した)。関節リウマチで手術ができなくなり、以後は講演と著述で過ごした。

関わったできごと(1)

最初の心臓移植AD1967年12月3日 · 執刀した

本文

1922年11月8日、南アフリカ、ケープ州のビューフォート・ウェスト。父アダムはオランダ改革派教会の牧師で、その教区は「有色人種(カラード)」の会衆だった。

そのため、一家は白人社会の中で低い扱いを受けた。教会の給料は、白人の会衆を持つ牧師の数分の一だった。家は貧しかった。

4人兄弟。次兄アブラハムは、5歳のとき、心臓の病で死んだ。

(バーナードは後年、この兄の死を、自分が心臓外科に進んだ理由として何度も語っている。)

**学業**。ケープタウン大学医学部。1946年卒業。開業医として数年働いた後、ケープタウンのフルート・スキュール(グルート・シュール)病院で外科の研修。

先天性の腸閉鎖症(腸の一部が生まれつき塞がっている)の研究で、犬の胎児の腸の血流を止める実験を行い、これが胎内の血流障害で起きることを示した。これで学位を取り、注目された。

**アメリカ**。1956年、奨学金を得てミネソタ大学へ。心臓外科の草分け**オーワー・ウォンゲンスティーン**とウォルト・リレヘイのもと。2年半。

ここで彼は人工心肺を学び、そして帰国の際、大学が資金を出して人工心肺装置を持ち帰った。

(同じ研究室に、後にライバルとなるノーマン・シャムウェイがいた。シャムウェイはスタンフォードで、犬を使った心臓移植の手技を、300例以上積み重ねて完成させていた。)

**1967年12月3日**。世界初の人から人への心臓移植。

提供者デニス・ダーヴァル(25歳、交通事故)。受け手ルイス・ワシカンスキー(55歳、心不全)。

手術は成功した。患者は目を覚まし、話し、食べた。18日後、免疫抑制で抵抗力が落ちたところに肺炎が来て、死んだ。

**名声**。

一夜で世界的な有名人になった。彼は美男で、話し上手で、写真映りがよかった。『タイム』『ライフ』の表紙。ローマ教皇、各国の元首、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジーダ。

医学界には、複雑な感情があった。技術を確立したのはシャムウェイであり、バーナードはそれを学んだ側である。彼が最初になれたのは、南アフリカに「動いている心臓を取り出す」ことを禁じる法や慣行がなかったことも大きい。

**アパルトヘイト**。

彼が世界の称賛を集めたのは、南アフリカが人種隔離政策で国際的に孤立していた時期である。政府はこれを宣伝に使った。

バーナード自身は、政策に批判的だった。彼は病院の人種別の待遇に反対し、患者を人種で分けずに扱ったと述べている。1971年、彼は「有色人種」の患者に心臓移植を行った。

一方で、彼が政権の顔として利用されることを、十分に拒まなかった、という批判もある。

**評価されなかった人**。手術チームの中に、**ハミルトン・ノーキ**がいた。黒人。庭師として病院に雇われ、動物実験室の助手になり、独学で外科の技術を身につけ、犬の実験で心臓移植の手技を数百回行った。ドナーの心臓の摘出に関わったとされる。

当時の制度では、彼は「実験助手」以上の肩書きを持てず、記録から名が消えた。彼は2005年に死んだ。2003年、ケープタウン大学が名誉博士号を授与した。

**その後**。バーナードは移植を続け、心臓を摘出せずに補助的に二つ目の心臓を付ける方法(異所性移植)も試みた。

1983年、関節リウマチで手が使えなくなり、外科を引退した。60歳。

以後、講演、著述(小説も書いた)、そして——若返りのクリームの広告塔になった。この最後の仕事は、彼の評判を損ねた。

二度離婚し、三度結婚した。最後の妻は40歳以上年下だった。

自伝『**One Life**』(1969年)。彼はその印税で、心臓研究の基金を作った。

**2001年9月2日**、キプロスのパフォスのホテルのプールサイドで、喘息の発作で死んだ。78歳。

彼の生まれ故郷ビューフォート・ウェストに、記念館がある。

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