クリスチャン・バーナード
概要
ケープ州の貧しい牧師の家。兄は5歳で心臓病で死んだ。ケープタウン大学、そしてアメリカのミネソタ大学で心臓外科を学んだ。1967年、世界初の人から人への心臓移植。一夜で世界的な有名人になった。人種隔離政策の国から出た称賛に、批判も伴った(彼自身は病院の人種別の区分に反対した)。関節リウマチで手術ができなくなり、以後は講演と著述で過ごした。
関わったできごと(1)
最初の心臓移植AD1967年12月3日 · 執刀した本文
クリスチャン・バーナードは1922年11月8日、南アフリカのケープ州の内陸の町ビューフォート・ウェストに生まれた。父アダムはオランダ改革派教会の牧師だったが、受け持っていたのは「カラード」と呼ばれた混血の人々の会衆だった。そのぶん俸給は少なく、一家は白人社会の中で軽く見られ、暮らしは苦しかった。

男ばかり4人兄弟で、兄の一人アブラハムは5歳のとき心臓の病で死んだ。バーナードは後年、この兄の死を、自分が心臓の外科に進んだ理由として何度も語っている。
ケープタウン大学の医学部を1946年に卒業し、田舎町で数年開業医をしたあと、ケープタウンのフルーテ・スキュール病院で外科の修業を始めた。最初に名を上げたのは、生まれつき腸の一部が塞がっている病気の研究だった。犬の胎児の腸の血流を止める実験を重ね、この病気が胎内での血の巡りの途絶えから起こることを示した。この成果で学位を取り、外科の道で注目されるようになった。

1956年、奨学金を得てアメリカのミネソタ大学に渡り、ウォンゲンスティーンとリレハイという、心臓外科の草分けたちのもとで2年あまり学んだ。ここで人工心肺を使った開心術を身につけ、帰国の際には装置を持ち帰る資金を得た。同じころミネソタには、のちにスタンフォードで犬を使った心臓移植の手技を何百例も積み重ねるノーマン・シャムウェイがいた。
1967年12月3日、バーナードはフルーテ・スキュール病院で、人から人への初めての心臓移植を行った(最初の心臓移植)。心臓を提供したのは、交通事故で脳に致命的な傷を負った25歳の女性デニース・ダーヴァルで、受けたのは重い心不全の50代の男性ルイス・ワシカンスキーである。手術は成功し、患者は目を覚まし、話し、食事をした。しかし、拒絶反応を抑える薬で抵抗力が落ちたところに肺炎を起こし、18日後に死んだ。翌月に移植を受けた歯科医フィリップ・ブレイバーグは、1年半以上生きた。
バーナードは一夜で世界的な有名人になった。顔立ちがよく、話がうまく、写真映りもよかった。雑誌の表紙を飾り、各国の首脳やローマ教皇と会い、映画女優たちと並んで写真に収まった。
医学界の受け止めは複雑だった。移植の手技を動物で磨き上げたのはシャムウェイたちで、バーナードはそれを学んだ側だった。彼が最初になれたのは、腕前と決断のほかに、脳死の患者から動いている心臓を取り出すことを妨げる法や慣行が、南アフリカにはなかったことも大きいと言われる。腎臓では十数年前に移植が始まっていたが(最初の腎臓移植)、心臓は止まれば終わりの臓器で、提供者の死をどう判定するかが避けて通れなかった。
彼が称賛を浴びたのは、南アフリカが人種隔離政策(アパルトヘイト)のために国際社会で孤立を深めていた時期である。アパルトヘイトの終結は、それから四半世紀あまり後の1994年である。政府は彼の成功を国の宣伝に使った。バーナード自身は政策に批判的で、病院の人種別の扱いに反対したと述べている。ブレイバーグに移植された心臓はカラードの男性クライヴ・ハウプトのもので、このことは国内で論議を呼んだ。一方で、政権の顔として使われることを十分に拒まなかった、という批判もある。

同じ病院の動物実験室には、ハミルトン・ナキという黒人の助手がいた。庭師として雇われ、実験室の仕事を任されるうちに独学で外科の技術を身につけ、犬や豚の手術で研究者たちを支えた。2003年、ケープタウン大学は彼に名誉の学位を贈っている。2005年に彼が死んだとき、多くの新聞が「最初の移植で提供者の心臓を取り出した」と報じたが、当時の人種隔離の病院で彼が手術室に入ることはできず、のちにいくつもの新聞がこの部分を訂正した。
バーナードはその後も移植を続け、患者の弱った心臓を残したまま二つ目の心臓を並べてつなぐ方法も試みた。1983年、関節リウマチで手が思うように動かなくなり、60歳で外科を退いた。以後は講演と著述で過ごし、小説も書いたが、若返りをうたう化粧品の宣伝に名前を貸したことは評判を損ねた。
結婚は3度、離婚は2度。最後の妻はずっと若いモデルだった。1969年に出した自伝の印税は、心臓研究のための基金にあてた。2001年9月2日、休暇で滞在していたキプロスのパフォスで、喘息の発作を起こして死んだ。78歳だった。
最初の患者は18日で死に、続く数年に世界中で行われた心臓移植の多くも、拒絶反応のために短い延命に終わった。移植が当たり前の治療になるのは、1980年代に新しい免疫抑制剤が使われるようになってからである。それでも、心臓を取り替えるという考えを、一つの手術で現実の選択肢に変えたのは彼だった。生まれ故郷のビューフォート・ウェストには、彼の記念館がある。