人物

アリスティド・ブシコー

Aristide Boucicaut
AD1810年7月14日 – AD1877年12月26日(享年67)
フランス重要度 3

概要

ノルマンディーの帽子屋の子。行商から始め、パリの織物店の売り子になった。1852年、共同経営者としてボン・マルシェに入り、やがて全部を買い取る。薄利多売、正価、返品自由、自由な入店。従業員に利益分配と年金の制度を設け、社宅と食堂を用意した。同時に、労働は長時間で、規律は厳格である。妻マルグリットは、洗濯女から身を起こした人で、夫の死後に事業を継ぎ、その財産の大半を慈善に充てた。

関わったできごと(1)

ボン・マルシェAD1852年 · 作った

本文

アリスティド・ブシコーは1810年7月14日、ノルマンディーに近いオルヌ県の町ベレームに生まれた。父は帽子屋だった。息子は10代の終わりに家を出て、布や小間物を背負って村々を回る行商を始めた。売り歩く暮らしの中で、彼は客が何を嫌い、何に引かれるかを体で覚えた。

アリスティド・ブシコー(1810〜1877年)
アリスティド・ブシコー(1810〜1877年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

1835年ごろ、彼はパリに出て、「プティ・サン・トマ」という大きな織物店の売り子になった。そこで十数年働き、売り場の主任にまでなった。同じころ、パリで小さな食堂を営んでいたマルグリット・ゲランと出会う。ブルゴーニュの貧しい農家の出で、洗濯女として身を立ててきた女性だった。二人のあいだには1839年に息子が生まれ、1848年に正式に結婚した。

1852年、ブシコーは長年の蓄えを元手に、セーヴル街の「ボン・マルシェ」という小さな店に共同経営者として加わった(ボン・マルシェ)。店の名は「安い」という意味である。従業員は12人、年の売上は45万フランほどだったとされる。

ボン・マルシェ百貨店(1892年)
ボン・マルシェ百貨店(1892年)Wikimedia Commons Public domain

彼が打ち出した方針は四つあった。値段を札に書いておき、値切りの交渉をしない正札販売。一つひとつの儲けを薄くして数で稼ぐ薄利多売。気に入らなければ品物を返してよい返品の自由。そして、買わずに眺めるだけで店に入り、出てよい入店の自由。どれも当時の商売の常識に反していた。それまでの店では、入ったら何か買うのが礼儀で、値段は客と店員の駆け引きで決まった。

時期もよかった。ナポレオン3世のもとでオスマンのパリ改造が進み、広い大通りと鉄道が、町の外からも人を運んでくるようになっていた。客は押し寄せた。とくに、それまで一人で店に入りにくかった中流の女性たちが、気兼ねなく品物を手に取り、見て回れるようになった。売上は1860年に約500万フラン、1870年には約2000万フランへとふくらんだ。翌年のパリ・コミューンの混乱も、店は乗り切った。1863年、彼は共同経営者の持ち分を買い取り、店を自分のものにした。

パリ・コミューンに関わる図版:Barricade18March1871 (cropped)
パリ・コミューンWikimedia Commons Public domain

1869年、新しい店舗の建設が始まった。設計は建築家のボワローで、のちの増築では鉄骨の構造にエッフェルの会社がかかわった。中央に大きな吹き抜けがあり、ガラスの天窓から光が降りそそぎ、鉄の階段が宙を渡る。建物そのものが見せ物で、当時の人々はそれを劇場にたとえた。季節ごとの大売り出し、通信販売の目録、子どもへの景品、店内の読書室。客を店に呼び、長くとどまらせるための工夫を、彼は次々に試した。

従業員のために、当時としては先進的な制度も作った。利益の一部を分ける仕組み、退職後のための積立、店の上の階の住まいと食堂、医務室。仕事のあとには語学や音楽の無料の講座まであった。

ボン・マルシェ百貨店の大階段(1892年)
ボン・マルシェ百貨店の大階段(1892年)Wikimedia Commons Public domain

一方で、働く側の暮らしは厳しかった。一日の勤めは12時間を超え、給料は売上に応じた歩合で、売れない者はやめていった。住み込みのため、結婚は事実上難しかった。作家エミール・ゾラは、この店をモデルの一つにして小説『ボヌール・デ・ダム百貨店』(1883年)を書き、巨大な店が周りの小さな店を飲み込み、店員を歯車のようにすり減らしていく姿と、そこで身を起こしていく若い売り子の姿の両方を描いた。

1877年12月26日、ブシコーは死んだ。67歳だった。死の年、店の売上は7000万フランを超えていた。経営はマルグリットが継いだ。彼女はもともと店の運営、とりわけ従業員の暮らしに深くかかわっていた人で、夫の残した制度を広げ、年金の基金を整えた。1879年には、跡を継ぐはずだった息子のアリスティドも30代の若さで死んだ。彼女は一人で店を率いた。

1887年、マルグリットは死んだ。遺言で、財産の大半は慈善に充てられた。一部は従業員の年金の基金に回され、店は従業員たちが持ち合う形で引き継がれた。遺贈をもとにパリ15区に建てられた病院は、いまもブシコー病院の名で知られる。孤児院や老人のための施設にも金が贈られた。洗濯女から始めた女性が、町に病院を残したのである。

ボン・マルシェはいまもパリのセーヴル街にあり、1980年代からは高級品の大企業グループの傘下にある。百貨店という形は、ロンドンへ、ニューヨークへ、そして明治の東京へと広がった。値札どおりに買えること、返品できること、見るだけで店に入れること。あまりに当たり前になって、いまではそれが誰かの発明だったことを思い出す人はほとんどいない。

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