アルフォンス・ベルティヨン
概要
パリ。父は医師で人類学会の創設者、兄は統計学者。学校を次々に放校になり、軍隊を経て、1879年にパリ警視庁の最下級の書記になった。前科者の記録カードを書き写す仕事の中で、身体の寸法で人を同定する方法を考えた。上司に何度も却下され、1882年に試験導入が認められた。写真の規格化と、犯行現場の測量写真も彼の考案である。一方、ドレフュス事件では筆跡鑑定の専門家として証言し、決定的に誤った鑑定で無実の将校を有罪にした。
関わったできごと(1)
ベルティヨンの人体測定法AD1883年 · 考えた本文
アルフォンス・ベルティヨンは1853年4月22日、パリに生まれた。学者の家である。父ルイ=アドルフは医師で統計学者、パリ人類学会の創設者の一人だった。母方の祖父アシル・ギヤールは博物学者で、「人口統計学」という語を作った人とされる。兄ジャックも統計学者になり、のちの国際的な病気の分類の原型を作った。食卓では、人の体を測ること、数を数えること、確率のことが話されていた。

ところがアルフォンス自身は、失敗を重ねた。規律に逆らい、成績も悪く、いくつもの学校を放り出された。イギリスへやられても続かず、銀行に勤めてもやめた。兵役を終えたあと、1879年、26歳で父のつてを頼り、パリ警視庁の最も下の書記の職についた。給料はわずかだった。
仕事は、前科者の記録カードを書き写すことだった。身長は中くらい、髪は栗色、顔は卵形、特徴なし。そんな記述をくり返し写す。これでは、捕まった男が偽名を名乗れば、前にも捕まったことがあるかどうか分からない。体の弱い彼は頭痛や消化不良に悩まされ、同僚からは無口で陰気な変わり者と見られていた。

彼は家で聞いて育ったことを思い出した。ベルギーの学者ケトレーが示したように、人の体の寸法は、平均のまわりに一定の形で散らばる。頭の長さ、頭の幅、中指の長さ、足の長さ、両腕を広げた幅。一つだけなら同じ人はいくらでもいるが、いくつも組み合わせれば、同じ値を持つ他人はまずいなくなるはずだ。彼は勤めのあと、自分で器具を買い、人を測り始めた。
上司に提案書を出しては、退けられた。下っぱの書記が何を言う、という扱いだった。父が警視総監に働きかけたとも伝えられる。1882年11月、ようやく3か月の試験が認められた。成果がなければ打ち切りという条件つきだった。彼は連れてこられる者を片端から測った。期限の迫った1883年2月、デュポンと名乗る男の寸法が、数か月前にマルタンという名で記録された男と一致した。最初の成功だった(ベルティヨンの人体測定法)。その年のうちに49人、翌年には200人を超える再犯者が見破られた。1888年、パリ警視庁に身元を確かめる部署が作られ、彼がその長になった。

彼が作ったのは、寸法の測り方だけではなかった。正面と横顔を、決まった距離と照明で撮る写真。いまの警察の顔写真は、ほぼその形のままである。鼻や耳の形を細かく分け、決まった言葉と記号で書き表す「話す肖像」。これで人相を電報で送れるようになった。犯行現場を真上から見下ろすように撮り、物差しを写し込む写真。数万枚のカードを数分で絞り込める分類の仕組み。足跡の型取りや血の跡の記録。犯罪の捜査に、測ることと記録することを体系として持ち込んだのは、彼が最初だった。名声は小説の中にまで届いた。コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』では、依頼人がシャーロック・ホームズを、ヨーロッパで2番目に優れた専門家と呼び、ホームズが1番は誰かと尋ねると、ベルティヨン氏だと答える場面がある。この方法は十年ほどで、ヨーロッパ各国、アメリカ、南米、そして日本にまで広がった。
その名声が、取り返しのつかない誤りを生んだ。1894年、フランス陸軍のユダヤ系の将校アルフレド・ドレフュスが、ドイツに軍の機密を流した疑いをかけられた(ドレフュス事件)。証拠は、ドイツ大使館のくずかごから拾われた明細書の筆跡だけだった。筆跡の専門家ではないベルティヨンが、科学の人として鑑定に呼ばれた。

彼の鑑定はこうだった。明細書の字はドレフュスの字と同じではない。だがそれは、ドレフュスが、あとで自分の字ではないと言い逃れできるように、わざと自分の字を少しずらして書いたからだ。彼は方眼紙と幾何学の図表と込み入った確率の計算を持ち出し、そのずれに規則性があると論じた。軍法会議はこれを信じ、ドレフュスは南米沖の悪魔島に送られた。
1904年、再審に向けて、数学者のポアンカレ、ダルブー、アペルの三人がこの鑑定を調べた。報告は、この議論には科学としての価値が何一つなく、確率の考え方の初歩的な誤りの上に立っている、と断じた。1906年、ドレフュスは無罪とされ、軍に戻った。最初の判決から12年がたっていた。ベルティヨンは死ぬまで、自分の鑑定を取り消さなかった。自分の方法への過信と、当時の軍や警察を覆っていたユダヤ人への偏見。そのどちらがどれだけ効いたのかは、いまも論じられている。

彼の測定法自体も、やがて退いていった。指紋の方が優れていたのである(指紋による身元確認)。体を測るには訓練が要り、測る人によって値がぶれる。子どもには使えない。指紋は誰でも採れ、年齢を問わず、何より犯行の現場に残る。アメリカの刑務所で寸法がほぼ同じ別人が見つかった、という有名な話も、測定法の限界を示す例として語られた。イギリスは1901年に指紋へ切り替え、各国が続いた。ベルティヨンは指紋を自分の体系の一項目として取り入れはしたが、主役の座を譲ることは拒み続けた。皮肉なことに彼自身、1902年、現場のガラスに残った指紋から殺人犯を突き止め、ヨーロッパで最も早く指紋で事件を解いた捜査官の一人になっている。
1911年、パリのルーヴル美術館から「モナ・リザ」が盗まれたとき、現場には犯人の指紋が残っていた。犯人は前科があり、ベルティヨンの記録にも載っていたが、記録の指紋は右手のもので、残っていたのは左手の指紋だったため照合できなかった、と伝えられる。

1914年2月13日、ベルティヨンは悪性の貧血のため、パリで死んだ。60歳だった。晩年には目もほとんど見えなくなっていた。
彼の測定法は、20年ほどで姿を消した。だが、人を名前ではなく体の記録で見分けるという考えは消えなかった。指紋、顔写真、身分証、旅券に埋め込まれた体の情報、そして顔を自動で照合する技術。どれも、警視庁の下っぱの書記がカードを書き写しながら考えたことの先にある。そしてドレフュスの件は、科学の装いをした断定が人を罰するとき何が起きるかを、いまも教えている。