概要
パリ。父は医師で人類学会の創設者、兄は統計学者。学校を次々に放校になり、軍隊を経て、23歳でパリ警視庁の最下級の書記になった。前科者の記録カードを書き写す仕事の中で、身体の寸法で人を同定する方法を考えた。上司に何度も却下され、6年目に試験導入が認められた。写真の規格化と、犯行現場の測量写真も彼の考案である。一方、ドレフュス事件では筆跡鑑定の専門家として証言し、決定的に誤った鑑定で無実の将校を有罪にした。
関わったできごと(1)
ベルティヨンの人体測定法AD1883年 · 考えた本文
1853年4月22日、パリ生まれ。
**家**。
父**ルイ=アドルフ・ベルティヨン**——医師、統計学者、そして**パリ人類学会**の創設者の一人。人口統計学の教授。
祖父**アシル・ギヤール**——博物学者。「**人口統計学(démographie)**」という語を作った人物。
兄**ジャック・ベルティヨン**——統計学者。国際疾病分類(ICD)の原型を作った。
家の食卓では、人体の測定と、統計と、確率の話がされていた。
**失敗**。
そして、アルフォンス自身は、**学校で失敗し続けた**。
いくつもの学校を放校になった(理由は、規律への反抗と、成績)。イギリスへ送られ、そこでも続かなかった。医学部に入ろうとして、断念した。銀行に勤めて、辞めた。
1875年、徴兵。軍隊で数年。
1879年、**26歳**。父の伝手で、**パリ警視庁の書記**の職を得た。
最下級。給料は乏しい。
**仕事**。
前科者の記録カードを、**書き写す**。
一日中、机に向かって、意味のない記述を書き写す。
「身長:中背。髪:栗色。顔:楕円形。特徴:なし」。
**彼は、身体が弱かった**。頭痛、鼻血、消化不良に生涯苦しんだ。同僚は彼を、無口で、陰気で、変わり者と見ていた。
**着想**。
彼は、家で聞いて育ったことを、思い出した。
ケトレーの正規分布。人体の各部の寸法の分布。父の人類学の測定。
**組み合わせれば、識別できる**。
彼は、勤務時間の後、自費で計測器具を買い、街の人々を測り始めた。妹に手伝わせた。
**却下**。
1879年から、上司に提案書を出した。
**却下された**。
出し続けた。「書記ごときが」と一蹴された。
(彼の父が警視総監に働きかけた、という記録がある。)
1882年11月、ようやく**3か月の試験**が認められた。ただし、成果がなければ打ち切り。
彼は、来る囚人を片端から測った。
**1883年2月20日**、最初の一致。「デュポン」と名乗る男が、数か月前に「マルタン」として登録されていた同一人物だと判明した。
その年、49人。翌年、241人。
**1888年**、パリ警視庁に「**司法身元確認課**」が新設され、彼が課長になった。
**制度**。
彼が作ったのは、測定法だけではない。
**(1)マグショット**。正面と横顔、決められた距離、決められた照明、縮尺1/7。現在の警察の写真の形式は、ほぼこのままである。
**(2)ポートレ・パルレ**(話す肖像)。顔の特徴を、決められた語彙と記号で記述する体系。鼻の形を14種、耳の形を数十種に分類し、記号で書く。電報で人相を送れるようになった。
**(3)犯行現場の写真**。三脚を高く立て、真上から俯瞰して撮る。縮尺の物差しを画面に入れる。**現在の鑑識写真の原型**である。
**(4)分類された記録**。数万枚のカードを、数分で絞り込める階層的な分類。
**(5)足跡の型取り**、**血痕の記録**、**筆跡の分析**。
彼は、**犯罪捜査に体系的な記録と測定を持ち込んだ、最初の人物**である。
**世界へ**。
ベルティヨナージュは、10年で世界に広がった。
ベルギー、スイス、ロシア、イタリア、スペイン、アメリカ、イギリス、アルゼンチン、そして日本。
1893年、シカゴ万国博覧会に、この方式が展示された。
**ドレフュス事件**。
1894年。フランス陸軍のユダヤ系将校**アルフレド・ドレフュス**が、ドイツへの情報漏洩の嫌疑をかけられた。
証拠は、ドイツ大使館の屑籠から回収された**明細書(ボルドロー)**の筆跡のみ。
筆跡鑑定の専門家ではないベルティヨンが、鑑定人として呼ばれた。
(彼が呼ばれたのは、彼が「科学的」な評判を持っていたからである。)
彼が提出した鑑定は、こうだった。
明細書の筆跡は、ドレフュスの筆跡と**同一ではない**。
しかし——ドレフュスは、後で「これは自分の字ではない」と主張できるように、**自分の筆跡を、わざと少しずらして書いた**(自己偽装)。
そして彼は、方眼紙と、幾何学的な図表と、複雑な確率の計算を持ち出して、そのずれの「規則性」を証明しようとした。
**軍法会議は、これを信じた**。
ドレフュスは終身刑となり、**悪魔島**へ流された。
1904年、再審のために3人の科学者(**アンリ・ポアンカレ**、ダルブー、アペル)が、この鑑定を検証した。
彼らの報告。
「この体系は、**いかなる科学的価値も持たない**。……その論証は、確率論の初歩的な誤りに基づいている」。
ポアンカレは、証言でこう述べたと伝えられる。「もし彼が数学を知っていたなら、こんなことは書かなかっただろう」。
1906年、ドレフュスは無罪となり、復職した。12年後である。
**ベルティヨンは、死ぬまで、自分の鑑定を撤回しなかった**。
(彼は、自分の方法への確信が強すぎた。そして、当時の軍と警察の反ユダヤ的な空気の中にいた。この二つが、どちらがどれだけ効いたかは、いまも論じられている。)
**衰退**。
1903年、**ウェスト事件**(レブンワース刑務所で、測定値がほぼ一致する別人が現れた)。
そして、指紋の優位が明らかになった。
- 測定は訓練が要り、誤差が出る。指紋は誰でも採れる。 - 測定は成人にしか使えない。指紋は年齢を問わない。 - そして、決定的に——**指紋は、犯行現場に残る**。
1901年、イギリスが指紋に切り替えた。1903年、ニューヨーク州。1914年、**フランス**。
ベルティヨンは、指紋を**自分の体系の一項目として**取り入れたが、主軸を譲ることは拒み続けた。
(皮肉なことに、彼は1902年、パリで**指紋によって殺人事件を解決した最初のヨーロッパの捜査官**でもある。現場のガラスの破片に残った指紋から、犯人を特定した。それでも、彼は指紋を中心に据えなかった。)
**1914年2月13日**、悪性貧血で死んだ。60歳。
失明しかけていた。
**残ったもの**。
彼の測定法は、20年ほどで消えた。
しかし、彼が持ち込んだ考え方——**個人を、名前ではなく、身体の記録によって同定する**——は、消えなかった。
指紋、顔写真、身分証、パスポートの生体情報、そして顔認証。
すべて、パリ警視庁の最下級の書記が、カードを書き写しながら考えたことの、延長線上にある。