ジョゼフ・バザルジェット
概要
ロンドン。フランス系。鉄道の測量から、首都建設委員会の技師長へ。1858年の大悪臭の後、下水道を任された。管の勾配、断面(卵形。水量が少ないときも流速が保てる)、そしてポンプ場(アブビー・ミルズは「下水の大聖堂」と呼ばれる装飾)。テムズの堤も彼の仕事。ハマースミス橋、バタシー橋。ナイト。彼が計算の2倍の管を敷いたおかげで、ロンドンは150年、それで足りている。
関わったできごと(1)
ロンドンの下水道AD1865年 · 作った本文
ジョゼフ・ウィリアム・バザルジェットは1819年3月28日、ロンドンの北のエンフィールドで生まれた。祖父はフランスから渡ってきた仕立て屋で、のちの国王ジョージ4世の服を仕立てて財をなした人だった。父は海軍の士官で、戦傷を負って退役していた。少年のバザルジェットは、正規の大学教育を受けず、17歳で土木技師の見習いに入り、アイルランドの土地の干拓や排水の仕事で腕を磨いた。

1840年代、イギリスは鉄道の建設に沸いていた。バザルジェットは独立して鉄道の測量と設計を請け負い、各地を飛び回ったが、働きすぎて1847年に体を壊し、長い療養を余儀なくされた。回復した彼が1849年に職を得たのが、ロンドンの下水を管理する首都下水委員会だった。
当時のロンドンは、人口250万を超える世界最大の都市でありながら、汚水の始末はほとんど中世のままだった。家々の下には汚水溜めがあり、あふれた汚水は古い下水を通ってテムズ川へ流れ込んだ。その同じ川から、多くの水道会社が飲み水を汲んでいた。1848年から49年、そして1853年から54年のコレラの流行で、ロンドンでは数万人が死んだ。医師ジョン・スノウは、コレラが汚れた水で広がることを突き止めていたが(ジョン・スノウのコレラ地図)、悪い空気が病を起こすという考えが主流で、彼の説はすぐには受け入れられなかった。委員会では技師長が次々に代わり、計画は議論ばかりで進まなかった。バザルジェットはその中で、ロンドン全体の下水の網の計画を辛抱強く練り上げていった。1856年、新しく作られた首都事業委員会の技師長に選ばれた。

計画を動かしたのは、悪臭だった。1858年の夏、記録的な暑さでテムズ川の汚水が腐り、川沿いの国会議事堂の窓には薬を浸した布が掛けられ、議員たちは審議もままならなかった。「大悪臭」と呼ばれたこの夏、議会はわずか18日で法を通し、バザルジェットの委員会に下水道を造る権限と資金を与えた。悪臭が病を運ぶと信じて造られた下水道が、結果として水を汚さず、コレラを封じることになるのである。
工事の中身は、別の項目(ロンドンの下水道)に譲るが、その規模は途方もなかった。テムズ川の両岸に沿って、既存の下水を受け止める巨大な幹線を通し、汚水をロンドンの東の下流まで運んで流す。幹線の長さは130キロあまり、それにつながる街路の下水は1700キロを超えた。バザルジェットは、必要な管の太さを計算したあと、それを倍にしたと伝えられる。いつか予想もしないことが起きるから、という理由だった。この余裕のおかげで、彼の下水道は、ロンドンの人口が想定をはるかに超えて増えた後も、20世紀を通じて使われ続けた。新しい材料だったポルトランド・セメントを大胆に使い、納入のたびに強度を試験させる慎重さも持っていた。

彼の仕事は下水にとどまらなかった。下水の幹線を通すためにテムズ川の岸を埋め立てて造ったヴィクトリア堤防などは、地下に下水と地下鉄とガス管を収め、地上に広い道路と庭園を載せた。ロンドンの川沿いの景色は、いまもその姿をとどめている。ハマースミス橋やパトニー橋、バタシー橋の架け替えも手がけ、新しい通りを切り開いた。
1866年、東ロンドンでコレラが流行したが、それは下水道の工事がまだ終わっていなかった地区だった。この流行を最後に、ロンドンからコレラの大流行は消えた。一方、1878年には、汚水の放流口の近くで遊覧船が沈み、600人を超える人が亡くなる事故が起き、汚水を処理せずに流すことの問題が明らかになった。下水の処理の改良は、その後の課題として残された。

バザルジェットは1875年に騎士に叙され、1889年まで技師長を務めた。1891年3月15日、ウィンブルドンの自宅で71歳で亡くなった。ヴィクトリア堤防には彼の胸像があり、川に鎖を掛けた、という意味のラテン語が刻まれている。21世紀に入り、人口が900万に迫ったロンドンでは、雨のたびに下水があふれて川へ流れ出すようになり、彼の下水道を補う大きなトンネルが新たに掘られた。150年前の技師の設計は、いまも都市の地下で働いている。