ジェームズ・ネイスミス
概要
オンタリオの開拓地。9歳で両親をチフスで失い、伯父に育てられた。木を切り、そりを作り、丸太小屋の学校に通った。マギル大学で神学と体育を修め、説教より体を動かすことで人を導けると考えた。1891年、スプリングフィールドで籠と球の競技を考案。後にカンザス大学の初代バスケットボール監督になり、その通算成績は55勝60敗で、同校の歴代監督で唯一の負け越しである。競技で金を稼ぐことに、生涯、関心を持たなかった。
関わったできごと(1)
バスケットボールの考案AD1891年 · 考えた本文
ジェームズ・ネイスミスは1861年11月6日、カナダのオンタリオ州アルモンテ近くの開拓地に、スコットランド系移民の子として生まれた。1870年、父ジョンと母マーガレットが、数週間のあいだに相次いで腸チフスで死んだ。彼と兄と妹が残された。子どもたちは祖母に引き取られ、祖母の死後は母方の伯父ピーターに育てられた。

開拓地の少年は、農場で働いた。木を切り、そりを作り、馬を扱った。学校は丸太小屋の一部屋である。15歳で学校をやめ、伯父の農場を手伝いながら、木こりと農夫として数年を過ごした。20歳を前に、彼は学校に戻った。
1883年、モントリオールのマギル大学に入った。体育を学びながら、自分も選手としてフットボール、ラクロス、体操に打ち込んだ。フットボールでは耳を守るために当て物を自作してかぶったと伝えられ、これが頭を守る防具の早い例とされることがある。1887年に卒業すると、長老派の神学校へ進み、1890年に課程を終えた。牧師になるつもりだった。

しかし彼は迷った。説教よりも体を動かすことで、若者をよい方向へ導けるのではないか。当時、教会の人々の多くはスポーツを不まじめなものと見ていて、神学校の教師たちも彼が体育にかかわることに反対した。一方でイギリスとアメリカでは、健やかな体と道徳と信仰を結びつける「筋肉的キリスト教」という考えが広がっていて、その中心にいたのがキリスト教青年会(YMCA)だった。1890年、彼はマサチューセッツ州スプリングフィールドにある青年会の指導者養成校へ移った。
1891年の冬、体育部長のギューリックは彼に課題を出した。冬の間、屋内でできて、面白く、けがの少ない競技を考えよ。若者たちは器械体操に飽き、教室は荒れていた。2週間ほど考えたすえ、ネイスミスは桃を入れる籠を二つ体育館の手すりに打ちつけ、サッカーボールを用意し、13条の規則を書いた(バスケットボールの考案)。ボールを持って走ってはならない。相手を押したりつかんだりしてはならない。籠を高いところに置いたのは、力いっぱい投げつけるのではなく、弧を描くように投げ入れさせるためだった。12月、9人ずつに分かれた18人の学生が最初の試合をした。ボールを持ったまま進むことはできず、パスをつなぐしかない。乱戦のすえ、得点は遠くからの一本だけで、1対0で終わったと伝えられる。籠には底があったので、点が入るたびに誰かがはしごを上ってボールを取り出した。ボールをつきながら進むドリブルも、底を抜いた網も、あとから工夫されたものである。

競技は青年会の網の目を通じて、またたく間に全米と世界へ広がった。スプリングフィールドでは女性たちもすぐに試合を始め、そのなかにのちの妻モード・シャーマンもいた。二人は1894年に結婚した。
1898年、彼はカンザス大学に移った。礼拝堂の主任であり、体育の責任者であり、バスケットボールの監督でもあった。同じ年、コロラドの医科大学で医師の学位も得ている。牧師であり、医師であり、体育の教師だった。

監督としての成績は、1898年から1907年までで55勝60敗。カンザス大学の歴代の監督のなかで、ただ一人負け越している。後を継いだ教え子のフォッグ・アレンがこの大学を強豪に育てた。アレンが監督になりたいと言ったとき、ネイスミスは、バスケットボールはコーチするものではない、遊ぶものだ、と答えたと伝えられる。
彼が大事にしたのは勝つことではなく、体を動かすことを通じて人をつくることと、誰もが加われることだった。1930年代には、のちに黒人として大学の監督で大きな成功を収めるジョン・マクレンドンが、カンザスで彼に学んだ。黒人の学生が大学のプールにも入れなかった時代に、ネイスミスは彼の相談相手になった。マクレンドンは後年、ネイスミスを恩師として語り続けた。

1917年、55歳の彼は青年会の一員としてフランスへ渡り、19か月、アメリカの遠征軍の兵士たちのもとで働いた。兵士の余暇を組み立てるとともに、性病を防ぐための話を、医師として率直にした。当時としては異例のことだった。
1936年、ベルリン・オリンピックで、バスケットボールが初めて正式な競技になった。1896年の第1回近代オリンピックから40年、競技が生まれてから45年目のことである。74歳のネイスミスは招かれたが、旅費は出なかった。全米の監督たちが募金を集めて、彼を送り出した。決勝のアメリカ対カナダは屋外の土のコートで行われ、雨でぬかるみになってボールがはずまず、19対8で終わった。生まれた国と暮らす国が決勝で向かい合うのを、彼は見届けた。

1937年にカンザス大学を退き、同じ年に妻モードを亡くした。1939年に再婚したが、その年の11月28日、脳出血で死んだ。78歳だった。
彼はこの競技から一銭も得ていない。特許も商標も取らず、使用料も受け取らなかった。名は、スプリングフィールドのバスケットボール殿堂や、大学の最優秀選手に贈られる賞に残っている。彼がタイプで打った13条の規則の原本は、2010年の競売で430万ドルあまりで落札され、落札したカンザス大学の卒業生夫妻が母校に寄贈した。いまキャンパスの記念館に飾られているその紙の第1条には、ボールは片手でも両手でも、どの方向へ投げてもよい、と書かれている。