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Person / 人

ジェームズ・ネイスミス

James Naismith
AD1861年11月6日 – AD1939年11月28日(享年78)
カナダ重要度 3

概要

オンタリオの開拓地。9歳で両親をチフスで失い、伯父に育てられた。木を切り、そりを作り、丸太小屋の学校に通った。マギル大学で神学と体育を修め、説教より体を動かすことで人を導けると考えた。1891年、スプリングフィールドで籠と球の競技を考案。後にカンザス大学の初代バスケットボール監督になり、その通算成績は55勝60敗で、同校の歴代監督で唯一の負け越しである。競技で金を稼ぐことに、生涯、関心を持たなかった。

関わったできごと(1)

バスケットボールの考案AD1891年 · 考えた

本文

1861年11月6日、カナダ、オンタリオ州**アルモンテ**近郊。

スコットランドからの移民の子。

**1870年**、8歳のとき、**両親が、同じ月に、腸チフスで死んだ**。

(父ジョンが先に、そして数週間後に母マーガレットが。彼と兄と妹が残された。)

祖母に引き取られ、その死後、伯父ピーターに育てられた。

**開拓地の少年**。

彼は、農場で働いた。

木を切り、そりを作り、馬を扱った。

学校は、丸太小屋の一部屋。

**15歳で、学校を中退した**。

(伯父の農場を助けるため。彼は、その後5年間、木こりと農夫として働いた。)

**20歳**、彼は学校に戻った。

**マギル大学**(モントリオール)。1883年入学。

体育を学び、同時に、大学の運動選手として活躍した(フットボール、ラクロス、体操、そして——**フットボールで、最初のヘルメット状の防具を自作した**、という記録がある。彼は耳を守るために、当て物を作った)。

1887年、体育学の学位。

そして——**神学**。

**プレスビテリアン(長老派)の神学校**へ進んだ。1890年、卒業。

彼は、**牧師**になるつもりだった。

**転換**。

しかし、彼は考えた。

**説教より、体を動かすことで、人を導けるのではないか**。

(当時、教会関係者の多くは、スポーツを不道徳と見ていた。彼の神学校の教師たちは、彼が体育に関わることに反対した。

一方、この時期、「**筋肉的キリスト教**(Muscular Christianity)」という運動が、イギリスとアメリカで広がっていた。健全な身体と、道徳と、信仰を結びつける思想である。YMCAは、その中心にあった。)

1890年、彼は**スプリングフィールドのYMCA訓練校**へ入った。

**1891年**。

体育部長ギューリックからの課題。「屋内でできて、面白く、怪我をしない競技を、2週間で考えよ」。

彼が考えたもの——**桃の籠と、サッカーボールと、13条の規則**。

**カンザス**。

1898年、**カンザス大学**へ。

肩書き——**礼拝堂の主任**、そして**体育部長**、そして**バスケットボール監督**。

(彼は、大学で医学の学位も取った。1898年、コロラドで医師の資格を得ている。牧師であり、医師であり、体育教師である。)

**監督としての成績——55勝60敗**(1898〜1907)。

**カンザス大学の歴代監督で、唯一、負け越している**。

(皮肉なことに、彼の後任**フォッグ・アレン**が、この大学を強豪にした。

そして、アレンが監督を志したとき、ネイスミスが言ったとされる言葉——

「**バスケットボールを、コーチすることなどできない。あれは、遊ぶものだ**」。)

**彼の関心**。

彼が本当に大事にしていたのは、**勝利ではなかった**。

- 体育を通じた、**人格の形成**。 - そして、**すべての人が参加できること**。

(彼は、女子のバスケットボールを支持し、後に妻となるモード・シャーマンを含む女子学生のチームを指導した。

また、彼はカンザスで、**黒人学生**の参加を支持した。1904年、ジョン・マクレンドン——後に黒人として初の主要な大学の監督になる人物——が、カンザスで彼に学んだ。マクレンドンは、ネイスミスを「私を、色ではなく、人として扱った」と回想している。)

**第一次大戦**。

1917年、**55歳**。

彼は、YMCAの一員として、フランスへ渡った。**19か月**、アメリカ遠征軍のもとで働いた。

(任務——兵士の余暇の活動と、そして**性病の予防教育**。彼は、この問題について、率直に、そして医師として語った。当時としては異例だった。)

**1936年、ベルリン**。

バスケットボールが、**五輪の正式競技**になった。

ネイスミスは、招待された。

(ただし、旅費は出なかった。全米バスケットボール・コーチ協会が、募金を集めた。彼と妻の渡航費が、そうやって賄われた。)

彼は、**最初の試合のボールを投げ入れた**。

そして、決勝——アメリカ対カナダ。

(屋外の**テニスコート**で行われた。雨が降り、コートが泥になった。ドリブルができない。得点は**19対8**。彼が考案した競技の、最初の五輪の決勝である。)

彼は、金メダルの授与を行った。

後に、彼は書いている。

「**私が、自分の人生で最も誇りに思う瞬間だった**」。

(彼は、母国カナダと、住んでいたアメリカの、どちらを応援したかを聞かれ、答えなかった。)

**その後**。

1937年、カンザス大学を退職。

1939年、妻モードが死んだ。3か月後、彼は再婚した。

**1939年11月28日**、脳出血で死去。**78歳**。

**残ったもの**。

彼は、この競技から、**一銭も得ていない**。

特許を取らず、商標を取らず、ロイヤリティを受け取らなかった。

(彼が受け取った唯一の報酬は、YMCA訓練校の給料である。)

**顕彰**。

- **ネイスミス記念バスケットボール殿堂**(スプリングフィールド、1959年設立)。 - 大学バスケットボールの最優秀選手賞——**ネイスミス賞**。 - カンザス大学の体育館の前の通り——**ネイスミス・ドライブ**。

**規則の原本**。

彼がタイプした13条の紙。

2010年、サザビーズで**430万ドル**で落札された。

(スポーツに関する記念品として、当時の最高額。)

落札者——デイヴィッド・ブースとスーザン・ブース夫妻(カンザス大学の卒業生)。

彼らは、それを**カンザス大学に寄贈した**。

いま、大学のキャンパスに建てられた記念館の、中央に展示されている。

**その紙の、最初の行**。

「**ボールは、片手または両手で、任意の方向へ投げてよい**」。

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