人物

柳生宗厳

Yagyu Muneyoshi
1527年 – AD1606年5月25日(享年79・推定)
柳生氏重要度 2

概要

大和の国人で新陰流の剣豪。上泉信綱に学び、徳川家康に剣を教えて柳生家の繁栄のもとを作った。石舟斎と号した。

本文

柳生宗厳(むねよし)は、大和国柳生庄(いまの奈良市柳生町)を治める国人、柳生家厳の嫡男として生まれた。生年は家の記録では1527年だが、本人が晩年に書いた目録の年齢から逆算すると1529年になり、一説にこちらとされる。入道してからの号、石舟斎の名でも知られる。

当時の大和は争いが絶えなかった。1544年、柳生城は筒井順昭の大軍に攻められた。同じ時代の『多聞院日記』によれば筒井方は一万にのぼり、城は三日の攻撃の末に落ちた。柳生家は筒井氏に従って家を保った。宗厳も筒井方の武将として戦い、手柄を立てて賞されている。その一方で若いころから剣を好み、富田流や新当流など諸流を学んで、近畿一帯に名を知られたという。

1559年、三好長慶の重臣松永久秀が大和に攻め込むと、宗厳は筒井氏を離れて久秀についた。以後は久秀の側近として戦い、使者として三好家の中枢とのやりとりも任された。1563年の多武峯の戦いでは、味方が敗れて逃げるなかで槍を振るって首を挙げ、久秀から感状を受けている。のちには織田信長からも上洛の準備について直接書状を受け取るほどの立場になった。

同じ1563年、宗厳の人生を変える出会いがあった。新陰流を開いた上泉信綱が、門弟とともに京へ上る途中で奈良に立ち寄ったのである。子孫が残した記録によると、宗厳は信綱との立ち合いを望んだが、まず弟子と立ち合うよう言われ、何度挑んでも短い竹刀に打ち負かされた。宗厳はその場で弟子入りし、信綱を柳生庄に招いて教えを受けた。試合の相手を信綱本人とする記録もあり、細部は伝えによって違う。

信綱は柳生を去るとき、刀を持たずに相手を制する「無刀取り」の工夫を宗厳に課題として残したと伝えられる。宗厳はこれを工夫して信綱に示し、新陰流の印可を受けたという。宗厳自身は生涯、自分の流儀を新陰流と名のったが、その系統はのちに柳生新陰流(柳生流)と呼ばれるようになる。

武将としての宗厳は不遇だった。主君の久秀は信長に背いて1577年に滅び、大和は宿敵の筒井氏のものになった。1571年の戦いでは息子が鉄砲傷を負い、長男の厳勝は障害を負って柳生にこもったとされる。豊臣秀吉の時代には、隠し田を咎められて所領を取り上げられたと伝えられ、家は困窮した。1593年、64歳で入道して石舟斎と名のり、自分の兵法観を百首の和歌にまとめた。その冒頭には、世を渡る術が無いので兵法を隠れ家と頼むのはつらい、という意味の自嘲の歌がある。

剣のほかにも交わりは広かった。名医の曲直瀬道三と親しく、道三が宗厳らを相手に健康の保ち方を問答で語った『養生物語』が残る。松永家中で宣教師フロイスに「偉大な剣術家」と評された結城忠正とも親交があり、柳生家に伝わる「左太刀」の構えは忠正から伝えられたものだという。

転機は1594年に来た。京の鷹峯で徳川家康に招かれ、家康を相手に無刀取りを披露したのである。家康はその場で入門の誓詞を出し、宗厳に禄を与えた。そばに仕えるよう求められた宗厳は、老齢を理由に断り、五男の宗矩を推したと伝えられる。宗厳は毛利輝元にも兵法を教えていた。1600年、宗矩は家康の命を受けて大和の武士をまとめ、関ヶ原の戦いで家康の本陣に加わった。その功で、柳生家はかつての所領を取り戻した。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

晩年の宗厳は、孫の利厳や長男の厳勝に新陰流の皆伝を授け、1606年4月19日(新暦5月25日)に柳生で死んだ。宗矩は徳川秀忠と徳川家光の剣術師範となり、のちには大名に列した。宗矩が『兵法家伝書』で説いた「殺人刀」と「活人剣」の考えは、新陰流の教えを広く知らせることになった。尾張徳川家に仕えた利厳の系統は、いまも新陰流を伝えている。

動画(1)

究極のカウンター剣術【柳生新陰流】心を究めた活人剣が凄すぎる!Rise of the Ronin剣術武術シリーズ非株式会社いつかやる柳生新陰流の構えと活人剣の考えを技から解き明かす
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