鳥居強右衛門
概要
奥平家の足軽。長篠城の籠城中に包囲を抜けて援軍を求め、戻る途中で武田方に捕らわれ、援軍が来ると城へ叫んで殺された。
本文
鳥居強右衛門(すねえもん)は、名を勝商(かつあき)という。三河国宝飯郡(いまの愛知県豊川市)の生まれとされ、生年は1540年と伝わる。奥平家に仕えた身分の低い武士で、直臣ではなく陪臣だったともいわれる。歴史に名が出てくるのは、1575年の長篠城の籠城のときだけである。
奥平家は三河の山あいに根を張る国衆で、今川・織田・徳川と主を替えてきた。元亀年間には武田信玄の侵攻を受けて武田方についたが、1573年に信玄が死ぬと、ふたたび徳川方へ寝返った。家康は奥平貞昌(のちの信昌)に、三河の東の端にある長篠城を任せた。信玄の跡を継いだ武田勝頼にとって、裏切った奥平家の守る城は見逃せない的になった。
天正3年(1575年)5月、勝頼は1万5000の兵で長篠城を囲んだ。城兵は500ほどしかいない。城は二つの川に挟まれた崖の上にあり、攻撃を何度も防いだが、13日に火矢で北の兵糧蔵が焼けた。食べ物が無くては数日しかもたない。貞昌は岡崎城の徳川家康へ使者を出して援軍を求めることにした。その危ない役目を自分から引き受けたのが強右衛門だった。
14日の夜、強右衛門は城の下水の口から抜け出し、川に潜って武田の見張りをくぐり抜けた。翌朝、城から見える雁峰山で狼煙を上げて脱出の成功を知らせ、その日の午後に岡崎へ着いた。そこにはすでに織田信長の援軍が着いており、織田・徳川の大軍が翌日にも長篠へ向かう手はずになっていた。知らせを一刻も早く届けようと、強右衛門はすぐに引き返した。
16日の朝、強右衛門はふたたび狼煙を上げ、城に入ろうとしたところで武田の兵に捕らえられた。狼煙のたびに城内から歓声が上がるのを、武田方は怪しんで見張りを強めていたのである。勝頼は、援軍は来ないと城へ告げれば命を助け、家臣に取り立てると持ちかけた。強右衛門は承知したふりをして城の見える場所に立ち、あと二、三日で援軍が来るから持ちこたえよと叫んだ。勝頼は怒り、その場で強右衛門を殺させた。磔にされたとする話と、斬られたとする話の両方が伝わる。
城兵はこの叫びに奮い立ち、援軍が着くまでの数日を守り抜いた。5月21日、設楽原で長篠の戦いが戦われ、武田軍は大敗した。信長は強右衛門の死を惜しんで墓を建てさせたと伝えられ、強右衛門の妻の故郷の甘泉寺(愛知県新城市)にはその墓とされる五輪塔が残る。子の信商は父の功で取り立てられ、のちに関ヶ原の戦いの後に京で安国寺恵瓊を捕らえる手柄を立てた。子孫は代々「強右衛門」の名を継いだ。

長篠の勝利は奥平家の運命も変えた。奥平家はこの戦いを「開運戦」と呼んだ。城を守り抜いた貞昌は信長から一字を与えられて信昌と名のり、翌年には家康の長女亀姫を妻に迎えて、徳川家の親類として重んじられるようになった。足軽一人の働きは、主家が戦国の世を生き延びる道を開いたことになる。
ただし、この話を伝える最も古い記録は、事件から50年近く後の1624年に刊行された『甫庵信長記』と、それに続く『三河物語』である。同じ時代の『信長公記』には何も書かれておらず、二つの記録の内容にも食い違いがある。鈴木金七郎という足軽が一緒に城を出たとする記録もあるが、奥平家の系図や『三河物語』には出てこない。強右衛門が詠んだとされる辞世の歌も、本人の作だという保証は無い。
それでも、磔にされた強右衛門の姿を描いた旗指物が現存する。武田方にいた落合左平次が、その最期に心を動かされて背旗にしたと伝えられるもので、いまは東京大学史料編纂所が持っている。強右衛門の話は大正時代に国定教科書に載って広く知られるようになり、飯田線の鳥居駅は最期の地にちなんで名づけられた。