鳥居元忠
概要
徳川家康の幼いころからの側近。関ヶ原の戦いの前、伏見城に籠もって西軍の大軍を引きつけ討ち死にした。
本文
鳥居元忠は1539年(天文8年)、三河国碧海郡渡(いまの愛知県岡崎市)で、松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として生まれた。父は岡崎の奉行を務めた古くからの家臣で、松平家の当主が今川氏のもとに人質として置かれていた時代に、留守の岡崎を支えた人である。
元忠は、のちの徳川家康がまだ竹千代と呼ばれ、駿府で人質として暮らしていたころからそば近くに仕えた。家康より3歳年上である。長兄は戦で死に、次兄は出家していたため、1572年に父が亡くなると元忠が家を継いだ。
家康が三河をまとめると、元忠は旗本の部隊を率いる将の一人となり、主要な戦いのほとんどに加わった。1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦いに出陣し、諏訪原城の戦いでは斥候として敵陣に忍び込んだところを見つかり、足を撃たれた。その後は歩くのに少し不自由が残ったという。1575年の長篠の戦いでは、石川数正とともに馬防柵を築く役を受け持った。

1582年、本能寺の変で織田信長が倒れると、旧武田領をめぐって徳川と北条が争った。このとき元忠は、家康の背後を突こうとした北条の別働隊を甲斐の黒駒で破った。兵は徳川方が2000、北条方が1万とされ、元忠らは北条方の約300を討ち取ったという。この功で甲斐の都留郡を与えられ、谷村城に入った。一方、1585年の上田合戦では真田昌幸の守る上田城を攻めて大きな損害を出し、退いている。
1590年に家康が関東へ移ると、元忠は下総の矢作に4万石を与えられた。北の佐竹氏や東北の大名への備えとして置かれたとみられる。豊臣秀吉から官位を勧められたが、家康のほかに主を持つつもりはないとして断ったという逸話も伝わる。
1600年、家康は会津の上杉景勝を討つため、大軍を率いて東へ向かった。その間の京都の押さえとして、伏見城を任されたのが元忠である。出陣の前夜、家康は伏見城に泊まり、元忠と酒を酌み交わした。家康が残せる兵の少なさを詫びると、元忠は、変事があれば城を枕に討ち死にするだけなので、一人でも多くの兵を連れて行くようにと答えたと伝えられる。
家康が去ると、石田三成らが挙兵し、伏見城は最初の標的になった。元忠は1800ほどの兵で籠城し、降伏を勧める使者を斬って、はじめから退かない構えを見せた。攻め寄せたのは宇喜多秀家や小早川秀秋らの率いる、4万ほどとされる大軍である。はじめ島津義弘が東軍として城に入ろうとしたが、元忠が家康から聞いていないとして断り、これが島津の西軍入りの一因になったという話も伝わる。西軍の大軍を相手に13日ほど持ちこたえ、城内にいた甲賀の者たちが、郷里の家族を人質に取られて西軍に通じ、火を放ったことが落城のきっかけになったと伝えられる。8月1日(西暦では9月8日)、城は落ちた。元忠は雑賀衆の鈴木重朝と戦って討たれたとされる。数えで62歳だった。
伏見城の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦である。西軍は京都の近くで大軍を足止めされ、そのあいだに家康は東で態勢を整えることができた。元忠の首は京都でさらされたが、親しかった京の商人が引き取って葬ったという。

元忠は、同じ三河の家臣・大久保忠教から「三河武士の鑑」と称えられた。落城のとき血に染まった伏見城の床板は、のちに京都の養源院などの寺に移され、いまも「血天井」として天井に張られている。血の付いた畳は江戸城の伏見櫓に納められたと伝えられる。
家康は元忠の死を悼み、子の忠政を取り立てた。忠政はのちに出羽の山形で22万石の大名となる。その後、子孫が不行跡で処分を受けたときも、元忠の功を理由に家の断絶は免れた。元忠が着ていたとみられる鎧は、討ち取った鈴木家に代々伝わり、2004年に大阪城天守閣へ寄贈された。