人物

タレーラン

Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord
AD1754年2月2日 – AD1838年5月17日(享年84)
フランス第一帝政重要度 3

概要

革命・ナポレオン・王政復古・七月王政を渡り歩いたフランスの外交官。ウィーン会議で敗戦国フランスの立場を守った。

本文

シャルル=モーリス・ド・タレーランは1754年、パリの古い名門貴族の家に生まれた。家柄は輝かしかったが、裕福ではなかった。幼いころから足が不自由で、本人は回想録で4歳のときの事故のせいだと書いているが、近年の研究では生まれつきで、内反足だった可能性があるとされる。この足のために軍人の道は閉ざされ、長男として家を継ぐ扱いも受けず、聖職者になるよう育てられた。のちに「びっこの悪魔」というあだ名で呼ばれることになる。

神学を修めたタレーランは、信仰心は薄く、むしろ啓蒙思想に親しんだ人だったが、聖職の世界で出世した。1780年にフランス聖職者の総代理となり、1788年には家の力でオータンの司教に任じられる。翌1789年、三部会に聖職者の代表として出ると、フランス革命の側に立ち、ミラボーとともに教会の財産を国のものにする案を推し進めた。聖職者に国家への宣誓を求める法を支持し、宣誓した新しい司教たちを叙階したため、教皇から破門される。司教の職も辞した。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

革命が過激になると、タレーランの立場も危うくなった。1792年に二度ロンドンへ渡って英仏の戦争を避けようと働いたが、国民公会は彼に逮捕状を出し、1794年には英国からも追放されて、合衆国へ逃れた。ロベスピエールの失脚後、友人たちの働きかけで亡命者の名簿から名を消され、1796年に帰国した。

翌1797年、タレーランは総裁政府の外務大臣になった。1799年のブリュメールのクーデターではナポレオン・ボナパルトの権力奪取を助け、統領政府と帝政のもとで外交を取り仕切る。オーストリアとのリュネヴィルの和約、英国とのアミアンの和約をまとめた。タレーランはフランスがもう十分に広がったと考え、平和を固めることを説いたが、ナポレオンの戦争は止まらない。1807年、彼は外務大臣を辞した。その後はオーストリアやロシアから金を受け取って、ナポレオンの秘密を流していたとされる。

1808年の末、タレーランはそれまで犬猿の仲だった警察大臣フーシェと手を組み、ナポレオンに万一のことがあった場合の後継を話し合い始めた。これを知ったナポレオンはスペインの戦場から急いで戻り、1809年1月、高官の居並ぶ前でタレーランを激しく罵倒した。そのとき「お前は絹の靴下に包まれた糞だ」と言ったと伝えられる。上品な装いの下に汚いものを隠している、という意味である。タレーランは顔色ひとつ変えずに聞き流し、退出してから、あれほどの偉人があれほど育ちが悪いとは残念だ、と言ったという話も残る。

ナポレオンが敗れた1814年、タレーランはブルボン家の王政復古を進めた中心人物の一人となり、パリ条約に署名した。続くウィーン会議では、敗れたフランスの代表として、メッテルニヒら戦勝国の代表と渡り合う。正統な君主の権利を重んじるという原則を掲げ、戦勝国どうしの対立につけこんで発言権を得た。フランスは賠償を払わずに1792年の国境を保つことになった。しかし1815年にナポレオンがエルバ島を脱出して百日天下を起こし、その敗北で講和の条件は厳しいものに改められた。

王政復古のもとでしばらく政府を率いたあと退いたタレーランは、1830年の七月革命でルイ・フィリップの即位を支え、76歳で駐英大使としてロンドンへ赴いた。英国との協調を築き、ベルギーの独立をめぐる列強の協議でも役割を果たした。1834年に大使を辞して政界を退き、ヴァランセの城などで客をもてなしながら晩年を過ごした。1838年5月17日、パリで死去。臨終の床で教会と和解したと伝えられる。

七月革命に関わる図版:La Liberté guidant le peuple - Eugène Delacroix - Musée du Louvre Peintures RF 129 - après restauration 2024
七月革命Wikimedia Commons Eugène Delacroix · Public domain

革命派、ナポレオン、ブルボン家、オルレアン家と、仕える相手を次々に替えたタレーランは、変節の人、賄賂の人として非難されてきた。報酬を受け取ることを当然と考える旧体制の流儀で、その金銭への執着は当時でも悪名高かった。一方で、どの体制のもとでもフランスの国益と平和を優先した現実主義の外交官だったとも評価される。会話の名手で美食家としても知られ、料理人アントナン・カレームを抱えて、食卓を外交の舞台にした。

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信じられないあだ名!あの偉人は『絹を履いた糞』って呼ばれていた!?非株式会社いつかやるあだ名当てで「絹の靴下を履いた糞」の主として出す
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