武市半平太
概要
土佐勤王党の盟主。号は瑞山。藩論を尊王攘夷に導いたが、政変後に投獄され、三文字割腹で果てたと伝わる。
所属
土佐藩本文
武市半平太は、幕末の土佐藩で土佐勤王党を率いた志士である。名は小楯、号は瑞山。剣の達人で人望が厚く、一時は藩の方針を尊王攘夷へと動かしたが、政局の転換とともに投獄され、最後は切腹を命じられた。その切腹は、腹を三度切り裂く「三文字割腹」だったと伝えられる。
文政12年(1829年)、土佐国吹井村(現在の高知市)に、郷士の武市正恒の長男として生まれた。武市家は白札という、郷士の中では上士に準じる家格だった。若いころから剣術を学び、小野派一刀流の皆伝を得て、高知の城下に道場を開いた。門下には中岡慎太郎や岡田以蔵らがいた。坂本龍馬とは遠縁にあたる。安政3年(1856年)には江戸に出て、鏡心明智流の桃井春蔵の道場・士学館に入り、塾頭を任された。
ペリーの来航以来、国中が揺れていた。安政6年(1859年)、将軍の跡継ぎ問題で一橋派に立った山内容堂は大老井伊直弼によって隠居に追い込まれ、土佐藩士の間には幕府への憤りが広がった。翌年の桜田門外の変で井伊が殺されると、尊王攘夷の機運は一気に高まった。半平太は同じ年、岡田以蔵らを連れて武者修行と称して西国を巡り、諸藩の動きを探った。文久元年(1861年)8月、半平太は江戸の土佐藩邸で同志とともに土佐勤王党を結成した。隠居させられた前藩主・山内容堂の志を継ぎ、藩を挙げて天皇のために尽くすことを誓う盟約を掲げた。土佐では龍馬が最初に加盟し、最終的に192人が加わったとされる。その大半は郷士や庄屋などの下級の武士や村役人で、上士はわずか2人だった。
当時の土佐藩の政治は、容堂の信任を受けた参政・吉田東洋が握っており、開国と公武合体を方針としていた。半平太は東洋に藩論の転換を説いたが退けられ、文久2年(1862年)4月8日、勤王党の那須信吾らが東洋を暗殺した。半平太の指令によるものとされる。東洋が除かれると、守旧派の重臣と結んだ勤王党は藩論を尊王攘夷へと転じさせ、半平太は藩主・山内豊範に従って京都に上った。
京都では長州藩の久坂玄瑞らと結び、公家の三条実美らを動かして、幕府に攘夷の実行を迫る勅使を江戸へ送る運動の中心となった。白札の郷士から上士格の留守居組へと引き上げられたのは、異例の出世だった。一方、京都では「天誅」と称して反対派を殺す事件が相次ぎ、勤王党の岡田以蔵らもこれに加わった。
しかし文久3年(1863年)、薩摩藩と会津藩が長州藩と攘夷派の公家を京都から追い出す八月十八日の政変が起き、情勢は一変した。土佐に戻っていた容堂は勤王党の弾圧に乗り出し、同年9月21日、半平太は投獄された。吉田東洋暗殺への関与を厳しく問われたが、半平太は1年9か月にわたって否認を続けた。その間、妻の富子は夫と苦労を共にするため板の間で寝起きし、夏も蚊帳を吊らずに過ごしたと伝えられる。
慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、罪状を立証できないまま、容堂の裁断により「主君に対する不敬」の罪で切腹を命じられた。同じ日、自白した岡田以蔵ら4人は斬首となった。半平太は体を清めて正装し、南会所の庭で、腹を三度切り裂く三文字割腹の作法で果てたという。享年37(数え)。
半平太の死で土佐勤王党は壊滅したが、党から出た龍馬や中岡慎太郎は、のちに薩長同盟や大政奉還に深く関わった。維新後、木戸孝允が酒席で容堂に半平太を斬った理由を問うと、容堂は藩の法に従ったまでだと答えたと伝えられる。明治24年(1891年)、龍馬や中岡とともに正四位を贈られた。色白で背の高い美男子だったと伝わり、戯曲『月形半平太』の主人公のモデルともされる。