白洲次郎
概要
占領期に吉田茂の側近としてGHQとの交渉にあたった実業家。貿易庁長官を務め、のち東北電力会長となった。
所属
日本本文
白洲次郎は、連合国軍の占領下の日本で吉田茂の側近としてGHQとの交渉にあたった人物である。終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て貿易庁長官を務め、通商産業省の発足に関わった。吉田が退いた後は政界に入らず、東北電力の会長などを務める実業家として生きた。英国仕込みの振る舞いと率直な物言いで知られ、没後に伝記が相次いで広く名を知られるようになった。
1902年2月17日、貿易商の白洲文平の次男として生まれた。白洲家は三田藩の士族の家柄で、祖父の退蔵は神戸女学院の創設に関わった。家には外国人の女性教師が寄宿しており、白洲は幼いころから英語に親しんだ。神戸一中では裕福な父から買い与えられたアメリカ車を乗り回していたという。1919年に中学を卒業するとイギリスへ渡り、ケンブリッジ大学のクレア・カレッジで聴講生として歴史などを学んだ。のちのストラフォード伯爵となる友人と生涯の付き合いを結び、ベントレーを駆って大陸を旅するなど、英国の上流の暮らしを身につけた。
1928年、父の商店が金融恐慌のあおりで倒産し、白洲は留学を打ち切って帰国した。英字新聞の記者を経て貿易会社の役員となり、商談で海外へ出ることが多かった。この間に駐英大使だった吉田茂と知り合い、ロンドンの大使館を定宿にするほど親しくなった。近衛文麿の側近の集まりにも出入りしている。1929年には伯爵樺山愛輔の娘の正子と結婚した。のちに随筆家として知られる白洲正子である。
第二次世界大戦が始まった翌年の1940年、白洲は東京府南多摩郡鶴川村(いまの町田市)の古い農家を買い、武蔵と相模の境にあることから「武相荘」と名づけて移り住んだ。日本の敗戦を見通していたともいわれ、政治や実業の一線を離れて畑を耕す日々を送った。
戦争が終わると、外務大臣となった吉田に請われて、1945年に占領軍との窓口である終戦連絡中央事務局の参与となった。白洲は英国仕込みの英語で言うべきことを言い、GHQの要人に「従順ならざる唯一の日本人」と言わせたと伝えられる。昭和天皇からの贈り物をマッカーサーに届けた際、ぞんざいに扱われて怒鳴りつけたという話も広く知られるが、GHQ側の記録には白洲の面会の記録がなく、信憑性には疑問が出されている。
1946年2月、日本政府の憲法改正案がGHQに退けられ、GHQの草案が示されると、白洲はその翻訳と日本政府案づくりにあたった。検討に時間が要るとして猶予を求める手紙をGHQ民政局長のホイットニーに送ったが、不必要な遅れは許されないと突き放された。こうしてできた日本国憲法について、白洲は後年、占領軍に強いられたものだとはっきり書き残すべきだったと述べている。同年に終戦連絡中央事務局の次長、経済安定本部の次長となった。
その後、白洲は第2次吉田内閣のもとで貿易庁の長官となり、汚職の一掃に辣腕を振るった。1949年5月、商工省と貿易庁をまとめて通商産業省が発足すると、その誕生に力を尽くした一人とされる。1950年には池田勇人蔵相らとともに首相の特使としてアメリカへ渡り、講和の下準備を進めた。1951年9月のサンフランシスコ講和条約の会議には全権団の顧問として随行した。吉田の受諾演説は日本語で読まれたが、これは白洲が英語の原稿に怒って書き直させたためだと本人は語っている。ただし外務省側の記録では経緯が異なり、日英両方の原稿が用意されていたともされる。

1951年、白洲は電力会社の再編で生まれた東北電力の会長となり、1959年まで只見川の電源開発を進めた。その後も多くの会社の役員を務め、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長としてもうるさがたで知られた。80歳近くまでポルシェを乗り回し、日曜大工でしゃもじや家具を作った。家では樺山家の味というカレーライスを好み、スプーンではなくフォークで食べたという。1985年11月28日、83歳で亡くなった。遺言は「葬式無用 戒名不用」の二言で、墓には戒名が刻まれていない。武相荘はいま記念館として公開されている。