できごと

カデシュの戦い

Battle of Kadesh
BC1274年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC1274年の版図を描いています(31勢力)。

概要

エジプトとヒッタイトが戦車で激突した。記録に残る最古級の大会戦で、双方が勝利を主張した。

場所

カデシュ位置は特定されていない(誤差 ±10km)
34.55°N 36.52°E · シリア・ホムス県

関わった人(1)

ラムセス2世BC1303年頃–BC1213年頃 · エジプト側 · 総指揮

本文

紀元前1274年頃、シリアのオロンテス川のほとりの町カデシュの近くで、エジプト新王国とヒッタイトの大軍がぶつかった。戦車が数千両、双方合わせて数万の兵が加わったとされ、戦いの経過がある程度まで分かる大会戦としては、記録に残る最古級のものになる。

争っていたのは、シリアの支配である。エジプトとメソポタミアとアナトリアを結ぶこの土地は、交易路が交わり、小さな都市国家が並んでいた。エジプトは前15世紀にここまで勢力を伸ばしたが、前14世紀、アクエンアテンの宗教改革で内向きになっていたあいだに、北のヒッタイトが南下してシリア北部を手に入れた。カデシュもヒッタイトの側についた。新王国第19王朝のセティ1世は失地を取り戻そうとしてカデシュを一時攻め落としたが、長くは保てなかった。

カデシュの戦いのラメセス2世
カデシュの戦いのラメセス2世Wikimedia Commons Publisher New York Ward, Lock · Public domain

その子のラムセス2世は、即位して5年目、まだ20代の若い王だった。前年には海沿いのアムル王国をエジプト側に寝返らせており、ヒッタイトの王ムワタリ2世はこれを取り戻すために軍を集めた。エジプト側の記録によれば、ヒッタイトは従属する国々からも兵を呼び集め、戦車だけで2500両、全軍では数万に達した。エジプト軍は神々の名を付けたアメン、ラー、プタハ、セトの4軍団、合わせて2万ほどで北へ進んだ。数字はいずれもエジプト側が残したもので、そのまま信じてよいかは分からない。

ラムセスは、偽の情報をつかまされた。カデシュの手前で、遊牧民の男が二人、ヒッタイトの陣営から逃げてきたと言ってやってきた。ヒッタイトの王は恐れて、はるか北のアレッポのあたりにいる、という。王はこれを信じ、自分の軍団だけを率いて先へ進み、カデシュの北西に陣を張った。後続の軍団は何キロにもわたって細長く伸びていた。

エジプト軍に打たれるシャスゥの密偵(古代の彫刻)
エジプト軍に打たれるシャスゥの密偵(古代の彫刻)Wikimedia Commons Public domain

実際には、ヒッタイト軍は町の向こう側にそっくり伏せていた。陣営で捕らえた斥候を打ち据えて問いただし、ラムセスはようやくそれを知る。そのとき、オロンテス川を渡ってきたヒッタイトの戦車隊が、行軍中のラー軍団の横腹を突いた。軍団は崩れ、逃げる兵はそのまま王の陣営へなだれこみ、王の部隊も包囲されかけた。

エジプト側の記録は、ここからを最大の見せ場として語る。ラムセスは戦車に乗り、神アメンに祈ってから、ほとんど一人で敵の中へ突き込み、何度も押し返したという。実際には、海沿いの道を別に進んでいた部隊がちょうど到着し、包囲していたヒッタイト勢の背後を突いたことが大きかったと考えられている。陣営に入ったヒッタイトの兵が略奪に気を取られたことも、立て直しを助けた。翌日も戦いは続いたが、決着はつかなかった。

ラメセウムのカデシュ戦闘場面の浮彫
ラメセウムのカデシュ戦闘場面の浮彫Wikimedia Commons James Henry Breasted (August 27, 1865 – December 2, 1935) · Public domain

ヒッタイトの戦車は3人乗りで重く、エジプトの戦車は2人乗りで軽く速かった。弓を射る台としての軽い戦車と、突撃する重い戦車の戦いだったと説明されることが多い。ただ、細かい戦術については記録が王の武勇に集中しているため、確かなことは言いにくい。

ラムセスはこの戦いを、自分の勝利として国中に刻ませた。アブ・シンベル、ルクソール、カルナク、テーベの葬祭殿ラメセウムなどの神殿の壁に、王が一人で戦車を駆り、敵を蹴散らす姿が大きく彫られている。逃げ散るヒッタイト兵がオロンテス川に落ち、引き上げられた敵の王族が逆さに吊るされて水を吐かされる場面まである。戦いを語った長い詩も、壁とパピルスの両方に残った。

ダプルを包囲するラメセス2世
ダプルを包囲するラメセス2世Wikimedia Commons Unknown, published in 1879 · Public domain

ヒッタイト側の記録では、勝ったのは自分たちになる。首都ハットゥシャから見つかった粘土板文書には、ムワタリがエジプトの王を打ち負かし、アムルを取り戻したと書かれている。実際、戦いの後にアムルはヒッタイトの側に戻り、ヒッタイトはダマスカスの周辺まで一時進出した。ラムセスは軍を引いて帰国している。戦場で全滅を免れたのはエジプトだが、戦いの目的を果たしたのはヒッタイトだった、と見る研究者が多い。

双方の記録が残っている戦いは、それ自体が珍しい。そして両方が勝利を主張している。王の権威を示すための記録は、勝ち負けの判定を信用できない。その一方で、偽の情報、伸びきった行軍の列、横腹への急襲といった具体的な筋は、宣伝のための文書からでも読み取ることができる。

領土はほぼ動かなかった。その後も十数年、両国はシリアで小競り合いを続けたが、やがてメソポタミアでアッシリアが力を伸ばし、ヒッタイトでは王位をめぐる争いが起きた。前1259年頃、ムワタリの弟ハットゥシリ3世とラムセス2世のあいだでエジプト・ヒッタイト平和条約が結ばれる。互いに攻めないこと、第三者に攻められたら助け合うこと、逃げてきた者を引き渡すことを定めた条文が、エジプトの神殿の壁とヒッタイトの粘土板の両方に残っている。さらに十数年後、ラムセスはヒッタイトの王女を妃に迎えた。

エジプト・ヒッタイト平和条約に関わる図版:Karnak Ägyptisch-Hethitischer Friedensvertrag 06
エジプト・ヒッタイト平和条約Wikimedia Commons Olaf Tausch · CC BY 3.0

カデシュで向き合った二つの国は、その後の運命が分かれた。ヒッタイトは前1200年頃、海の民の侵入と青銅器時代の終わりの動乱の中で崩れて消える。ラムセス2世は60年以上も王位にあり、90歳前後まで生きたとされる。神殿の壁の上では、若い王はいまもカデシュの戦場で一人、敵の戦車の群れに向かって弓を引いている。

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