内藤正成
概要
松平広忠と徳川家康に仕えた三河の武将。強弓の名手として知られ、徳川十六神将の一人に数えられる。
本文
内藤正成は、戦国時代の三河の武将である。松平広忠と、その子の徳川家康に仕えた。槍や刀ではなく弓で名を上げた人で、のちに家康を支えた功臣を集めた「徳川十六神将」の一人に数えられている。
正成は1528年(享禄元年)、三河の松平家に仕える内藤家に生まれた。父は内藤忠郷で、伯父の内藤清長は松平家の重臣だった。はじめ清長に仕え、やがて弓の腕を見込まれて広忠の家臣になったと伝えられる。広忠が死ぬと、幼い竹千代、のちの家康に仕えた。
このころの三河は、西の織田氏と東の今川氏に挟まれた小さな国だった。松平家は今川氏の下に入り、竹千代は人質として駿府に送られた。正成のような三河の家臣たちは、主君のいない国で今川の指図に従いながら、織田方との小競り合いを戦い続けた。
正成の武勇は、多くが伝承の形で残っている。若いころ、三河に攻め入った織田信秀の軍を矢で退けたといい、小豆坂の戦いでは攻め寄せる織田勢に矢を続けざまに射込み、200人以上を死傷させたと伝えられる。この数字を裏付ける同時代の記録は無く、後世の誇張が混じっていると見るべきだろう。ただ、弓の名手として家中に知られていたことは、さまざまな記録が一致して伝えている。
戦国時代の戦場では、敵とぶつかる前の矢戦が勝負の行方を左右した。1543年の鉄砲伝来のあと鉄砲は急速に広まったが、雨に弱く、弾込めに時間がかかった。そのため弓はその後も長く使われ、強い弓を遠くまで正確に引ける射手は、一人で何人分もの働きをした。正成の名が残ったのは、そうした時代の戦い方の中でのことである。
1560年、家康が今川方として大高城に兵糧を運び入れたとき、正成も同行したとされる。その直後の桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、家康は自立の道を歩み始める。1563年から翌年にかけての三河一向一揆では、家康の家臣の多くが一揆の側に付き、主従や親族が敵味方に分かれた。一向宗の門徒だった家臣たちは、信仰と主君への忠義のどちらを取るかを迫られた。家康の生涯でも、もっとも危うい内乱の一つだったとされる。正成は家康の側に立ち、一揆方に付いた舅の石川氏の膝を射抜いて退けたとも、一揆方の勇将・渡辺高綱を射て手柄を立てたとも伝えられる。

1573年の三方ヶ原の戦いで、家康は武田信玄の大軍に大敗した。正成はこの戦いで長男を失ったとされる。その後も遠江の高天神城をめぐる武田氏との戦いに加わり、敵の武田方からもその強弓を恐れられたという。
1590年、家康が関東へ移ると、正成は武蔵国埼玉郡の栢間(いまの埼玉県久喜市菖蒲町)などに5000石を与えられ、陣屋を構えた。三河時代の700石からは大きく増えたが、長年の働きと比べると不遇だったとする見方もある。家康の家臣団では、戦場で働いてきた者と、政務を担う者との比重が少しずつ変わりつつあった。
晩年の正成は病に倒れた。徳川秀忠が医師を差し向けたが治らず、1602年6月2日(慶長7年4月12日)に死んだ。享年75。江戸幕府が開かれる前年だった。
正成の家は、孫の代に不祥事で一度取り潰されたが、三河以来の武功を理由に、別の孫が同じ5000石で家を継いだ。のちに加増されて5700石の大身旗本となり、幕末まで続いた。栢間の陣屋の裏門は、いまも菖蒲城の跡に移されて残っている。
徳川十六神将という数え方は江戸時代に入ってから広まったもので、顔ぶれにも異同がある。正成が選ばれているのは、四天王のような大名ではなく、戦場の一人の射手として名を残したからだろう。鉄砲が広まる前の戦国の戦場で、弓がどれほどの力を持っていたかを語るとき、正成の名はいまも引かれる。