人物

武蔵坊弁慶

Musashibo Benkei
? – 1189年
鎌倉幕府重要度 3

概要

源義経の郎党の僧。同時代の記録には名が見えるだけで、怪力や立ち往生の話は『義経記』以後の物語に由来する。

本文

武蔵坊弁慶は、源義経に従った僧である。日本でいちばん名の知られた家来の一人だが、同時代の記録に残っているのは名前だけに近い。怪力の荒法師、五条の橋での牛若丸との出会い、安宅の関の勧進帳、衣川での立ち往生。よく知られた場面のほとんどは、死後百数十年以上たってから書かれた物語の中で生まれた。

鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』には、文治元年(1185年)11月、兄の源頼朝と対立して都を落ちる義経に従った者の一人として「武蔵房弁慶」の名が出てくる。『平家物語』にも義経の郎党として名が見え、『源平盛衰記』は痩せた法師として描いている。しかし生まれた土地も、年齢も、どの戦いで何をしたのかも、当時の史料は語らない。一ノ谷の戦いや屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経の軍にいたことは十分ありうるが、確かめる手立てはない。

一ノ谷の戦いに関わる図版:Battle of Ichi-no-Tani Folding Screen by Kano School
一ノ谷の戦いWikimedia Commons Kano School · Public domain

一方で、都を追われた義経を比叡山の僧たちがかくまったことは記録に残っている。九条兼実の日記『玉葉』や『吾妻鏡』によれば、比叡山の悪僧(武装した僧)が潜伏する義経を助け、俊章という僧は義経を奥州まで案内したとされる。文治5年(1189年)には、義経の手紙を運んでいた比叡山の僧が捕らえられてもいる。こうした名もない僧たちの働きが、一人の弁慶に集められて伝説になったのではないか、という説がある。

弁慶の人物像を作ったのは、南北朝時代から室町時代の初めに成立したとされる『義経記』である。そこでは弁慶は熊野別当の子で、母の胎内に十八か月いて、生まれたときから髪も歯も生えそろっていたため鬼若と呼ばれた。比叡山に入れられたが乱暴が過ぎて追われ、自ら髪を剃って武蔵坊弁慶と名乗り、播磨の書写山を焼いたことになっている。京で千本の太刀を奪おうと誓い、九百九十九本を集めたところで、笛を吹いて通りかかった牛若丸に打ち負かされて家来になる。ただし『義経記』でこの出会いの場は五条天神や清水観音で、五条大橋とするのは明治の童話作家、巌谷小波の『日本昔噺』からである。当時の京に五条大橋はまだ架かっていなかった。

奥州へ落ちる途中の加賀の安宅の関の話も、能の『安宅』と、それをもとにした歌舞伎の『勧進帳』で広まった。山伏に姿を変えた一行が関守に怪しまれ、弁慶は白紙の巻物を東大寺再建のための勧進帳として読み上げ、さらに義経を金剛杖で打ちすえて疑いを晴らす。関守は嘘を見抜きながら、主を打ってまで守ろうとする弁慶の心に打たれて通した、という筋である。『勧進帳』は天保11年(1840年)に七代目市川團十郎が初演し、いまも上演され続けている。

文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、藤原泰衡は頼朝の圧力に屈し、平泉の衣川館にいた義経を襲った。義経は妻子とともに自害した。『義経記』は、弁慶がお堂の入口に立ちはだかって薙刀をふるい、全身に矢を受けて立ったまま死んだと語る。「弁慶の立ち往生」である。これも同時代の記録には無く、物語が作った最期である。頼朝はこのあと泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした(奥州合戦)。

奥州合戦に関わる図版:奥州高館大合戦
奥州合戦Wikimedia Commons 歌川芳虎 Utagawa Yoshitora (1836-1880) · Public domain

史実の弁慶はほとんど空白だが、その空白に、主君を最後まで守る家来の理想が書き込まれていった。能、歌舞伎、講談、昔話を通じて弁慶は怪力と忠義の代名詞になり、向こうずねを「弁慶の泣き所」、家の中でだけ威張る者を「内弁慶」と呼ぶ言い回しまで生まれた。平泉の中尊寺の参道入口には弁慶の墓と伝わる五輪塔があり、和歌山県田辺市や島根県松江市などには生誕地の伝承が残る。全国に散らばる弁慶岩や弁慶石の言い伝えは、人々がこの人物をどれほど身近に感じてきたかを物語っている。

動画(1)

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